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ボルヘス

Jorge Luis Borges 1899~1986 アルゼンチンの小説家・詩人・評論家。前衛的な詩や物語で、世界的に名を知られる作家になった。

1899年8月24日、ブエノス・アイレスの裕福な家庭に生まれた。ジュネーブで教育をうけ、1919年から3年間スペインでくらし、表現主義やウルトライスモ(超絶主義)の影響をうけた。21年に帰国し、「プロア」、「マルティン・フィエロ」などの文学・哲学誌の創刊に協力し、「ブエノス・アイレスの熱狂」(1923)、「正面の月」(1925)、「サン・マルティンの手帖」(1929)のような、ブエノス・アイレスへの賛歌をテーマにした抒情詩を発表した。

1930年代に、敗血症により健康をそこない、徐々に視力をうしなった。しかし、38~47年、国立図書館に勤務し、55~73年には館長に就任。55年にはブエノス・アイレス大学で英文学も講じた。この間、詩人から短編作家へと転身をはたし、有名になった。

世界のアンチヒーローをとりあげた「汚辱の世界史」(1935)にはじまる散文作品の中でも、「伝奇集」(1944)と「不死の人」(1952)は、中核をなす短編集である。ほかに、アドルフォ・ビオイ・カサレスとの共著「怪奇譚(かいきたん)集」(1955)、詩文集「創造者」(1960)、マルガリタ・ゲレロとの共同執筆による「幻獣辞典」(1967)、それに「ブロディーの報告書」(1970)や「砂の本」(1975)などの小説集がある。「続審問」(1952)のような哲学的・文学的評論も書きのこした。好評をえた短編作品をあつめた「個人選集」(1961)もある。1986年6月14日ジュネーブで死去。

ボルヘスは、幻想的でこのうえなく主観的な、しかもひじょうに形而上的な世界を構築した。作品は難解である。独自の象徴体系を創造していたからであるが、外国の作家や学者たちの評価は高い。自作品について彼は、「わたしは、思想家でもモラリストでもない。むしろ、自身の不安やわたしたちが哲学とよぶ不安の体系を、文学の形式に変換する文人にすぎないのだ」とかたっている。作品は20カ国語以上に翻訳され、世界各国の重要な賞をほとんど獲得している。1980年、セルバンテス賞受賞。

ボルヘス

1899-1986Jorge Luis Borges

アルゼンチンの小説家,詩人,評論家。イギリス系の血の混じる,教養の高い裕福な家庭の子としてブエノス・アイレスに生まれた。第1次大戦の始まった年から1920年代の初めにかけて,スイスあるいはスペインに滞在し,表現主義やウルトライスモ(超絶主義)などの当時の前衛的思潮に深く影響された。故国に帰ってから,《プロア》《マルティン・フィエロ》《スル》といった雑誌を中心に積極的な活動を開始し,《ブエノス・アイレスの熱狂》(1923),《正面の月》(1925),《サン・マルティンの手帖》(1929)など,古き良き首都への郷愁と形而上学的な不安とがないまぜになった詩集を発表した。30年代に入ってからは散文に転じ,一人の民衆詩人の評伝《エバリスト・カリエゴ》(1930)に始まって,《論議》(1932),《永遠の歴史》(1936),《続審問》(1952)といったエッセー集を上梓した。それらの中で開陳されている,この宇宙を支配する円環的時間,その空間的投影として秩序と混沌を同時に象徴する迷宮的世界像,個々の生によって永遠に反復される祖型的運命,文学的伝統の中でのみ存在しうる作者の非独創性のような根本的な思想は,《汚辱の世界史》(1935),《伝奇集》(1944),《アレフ》(1949),《ブロディの報告書》(1970),《砂の本》(1975)などの幻想性豊かな短編集の中にもうかがうことができる。また,《創造者》(1960),《陰影礼賛》(1969),《群虎黄金》(1972),《鉄の貨幣》(1972),《夜の歴史》(1977),《暗号》(1981)といった後期の詩集において,飽くことなく歌われている。40年代と70年代におけるペロン政権下の執拗な圧迫にもかかわらず,現実との間に距離をおくその態度は,とくに若い作家たちの非難の的となった。しかし一方で,生のうちに潜む永遠なるものを巧緻な措辞と構造の下に表現しようとする文学的姿勢は高く評価されている。1979年にセルバンテス賞を授けられた。

ラテンアメリカ文学

[イスパノ・アメリカの文学]

スペイン系アメリカを中心にしたラテン・アメリカ文学は,15世紀末の発見・征服の時代から始まり,植民地時代を経て,独立時代に入り,現代にいたる約500年の歴史をもっている。まず発見・征服の時代には,それに参加した征服者や聖職者の日記,記録,報告,年代記,書簡などが文学史を形成することになる。そのおもなものをあげると,ラス・カサスの手書本による《コロンブス航海誌》,エルナン・コルテスの《五つの報告書》(1519‐26),ラス・カサスの《インディアス破壊に関する簡潔な報告》(1552),ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ BernalD??az del Castillo(1495か96‐1584)の《新スペイン征服正史》(1552)などである。このほかに特記すべきものとして,ラテン・アメリカ文学史上では初めての叙事詩であるエルシリャ・イ・スニガの《ラ・アラウカナ》(1569‐89)とマヤ・キチェ族の神話である《ポポル・ブフ》(1550)が挙げられる。

 植民地時代に入ると,発見・征服時代とは違ったジャンルの文学が出現するようになったが,それでもスペイン本国の文学の手法や傾向がそのまま反映されたものが多いうえに,植民地の秩序・良俗が乱されることをおそれた本国の小説禁輸政策によって,小説が文学のジャンルを確立するまでにはいたらなかった。このため,この時期の文学は歴史,書簡,詩,演劇などに限られてい

た。この時代の注目すべき作品としては,ガルシラソ・デ・ラ・ベガの《インカの起源に関する真実の記録》(1609‐17),解放者シモン・ボリーバルの《カルタヘナ宣言》(1817)などの一連の政治評論のほか,ホセ・マリア・エレディアに代表されるロマン主義の詩が挙げられる。 独立時代に入っても,イスパノ・アメリカは政治的独立を達成したものの,文化的・精神的自立からはほど遠く,文学の面でもいぜんとして新古典主義やロマン主義の影響を受けた作品が支配的であった。しかし注目すべき傾向として,ラテン・アメリカの風土に根ざした風俗主義(コストゥンブリスモ)の小説や詩がようやく生まれはじめた。ホセ・ホアキン・フェルナンデス・デ・リサルディの《疥癬(かいせん)かき鸚鵡(おうむ)》(1816‐31),ドミンゴ・ファウスチノ・サルミエントの《ファクンド――文明か野蛮か》(1845),ホセ・エルナンデスの《マルティン・フィエロ》(1872)などがそうした作品である。またスペイン・ロマン主義の影響を受けながらも,ホセ・マルモルの《アマリア》(1851‐71)とホルヘ・イサアクスの《マリア》(1867)は,ラテン・アメリカ文学史上に小説のジャンルを定着させた作品であるといえよう。ラテン・アメリカ文学では初めて伝説のジャンルを確立したリカルド・パルマの《ペルー伝説集》(1872‐93)も,見落とすことのできない著作である。 しかしイスパノ・アメリカで真の自立した近代文学が生まれるのは,独立後約60年もたった1880年代に入ってからである。ホセ・マルティとマヌエル・グティエレス・ナヘラによってこの時期に開始されたおもに詩の分野における新しい文学運動〈モデルニスモ modernismo〉は,新古典主義の硬直性,写実主義の平俗性,ロマン主義の感傷性を打破し,華麗な文体,新鮮な言葉,音楽的リズム感などをともなった新しい詩を創造することに成功した。そして1888年,ルベン・ダリオの《青》の出現によってモデルニスモ運動はいっそう発展し,完成の域に到達した。モデルニスモによって,イスパノ・アメリカはスペインから初めて文化的に独立することができたのである。だが1916年にダリオの死後,モデルニスモは文体や言語の刷新が飽和点に達し,貴族趣味に走るとともに,第1次世界大戦後ヨーロッパから到来した前衛詩に押されて,衰退の一途をたどることになった。

 20年代以降は,詩の分野ではルイス・ボルヘス,パブロ・ネルーダ,セサル・バリェホ,ニコラス・ギリェンらによって代表される前衛詩,社会詩が主流になり,多くのすぐれた作品が生まれた。また散文の分野でも,1910年のメキシコ革命の影響を受けて,ラテン・アメリカの土着性を再認識する動きがみられ,〈メキシコ革命文学〉〈大地小説〉〈ガウチョ文学〉(ガウチョ),〈インディヘニスモ文学〉(インディヘニスモ),〈アフロ・アメリカ文学〉などの,写実主義的な土着文学が相次いで誕生した。これらの文学は,密林,大河,草原,山岳地帯,農場など,ラテン・アメリカの自然や風土を背景あるいはテーマにし,インディオ,黒人,混血など下層の人々を対象にして,現実や土着性を再検証しようとする新しい文学運動として,1920年代から50年代にいたるまで,ラテン・アメリカ文学史上で首座を占めたのである。

神代 修

 

[ブラジル文学]

植民地時代(1500‐1822)のブラジルの文芸はイベリア半島の文芸の延長線上にあったが,この中ではバロック詩人グレゴリオ・デ・マトス Greg?Erio de Matos(1633‐69)がブラジルの土地,人間を題材とした傑出した作品を残している。1808年のポルトガル王室のブラジルへの移転と22年の政治的独立はナショナリズムを高揚させ,文学においてもポルトガルの模倣からの脱却が叫ばれていた。そのため,そのころフランスから入ったロマン主義はきわめてナショナリスティックな性格をもっている。この期(1830‐70)の代表的な詩人はゴンサルベス・ディアス(1823‐64)と奴隷解放詩人カストロ・アルベス(1847‐71)である。ブラジルの小説の創始者は実質上ジョアキン・マヌエル・デ・マセド(1820‐82)であるが,このジャンルの幅を大きく広げたのはジョゼ・デ・アレンカルJos?? de Alencar(1829‐77)である。彼はインディオを題材とした《グアラニー族》(1857)をはじめとしてブラジル各地の風景,人間を多くの小説で描き,きわめてブラジル的な文体をつくりあげた。また,マヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ ManuelAnt?ynio de Almeida(1831‐61)の悪者小説《国民軍軍曹についての回想》(1853)は,この期にあって異彩を放ち,写実主義の先駆的作品である。

 ドイツの一元論,イギリスの進化論,フランスの実証主義などの影響を受けた写実・自然主義の時代(1870‐90)に入ると,アルイジオ・アゼベド(1857‐1913)の《混血児》(1881),ラウル・ポンペイア(1863‐95)の《寄宿学校アテネウ》(1888)など,地方の風物やインディオなどよりは特定の社会やその構成員が描かれるようになる。ロマン主義末期に登場し,とくに小説《ブラス・クーバスの死後の回想》(1881)以降,独自の世界をつくりあげていったマシャード・デ・アシスはブラジル文学最大の作家である。詩においては官能的なオラーボ・ビラック(1865‐1918)は高踏派を,黒人詩人クルス・イ・ソウザ(1861‐98)は象徴主義(1890‐1900)を代表している。

 20世紀の最初の20年間は19世紀文学の名ごりをいまだにとどめた過渡期であるが,ブラジル社会全体の激動期でもある20年代に入ると,旧世代にあきたらず新しい文学の出現を希求する世代が現れはじめ,近代主義期(1920‐45)の幕あけになる。この運動はヨーロッパのシュルレアリスム,未来派などの前衛的芸術運動に触発されたもので,統一的な美学をもたず個人的色彩の強いものであるが,既存の文学,とくにアカデミズムを打破し,芸術的自由,文学的ナショナリズムの獲得を目指した。マリオ・デ・アンドラーデ(1893‐1945),オズバルド・デ・アンドラーデ(1890‐1954),マヌエル・バンデイラ(1886‐1968)らの20年代の詩人たちは,とりわけ芸術的ラディカリズムを推し進めた。

 30年代には,ジョルジェ・アマド,グラシリアノ・ラモス Graciliano Ramos(1892‐1953),ジョゼ・リンス・ド・レゴ Jos?? Lins do Rego(1901‐57)ら北東部地方(ノルデステ)出身の小説家たちが登場し,同地方の社会問題を,地方的な香りのする口語体に近い文体で提起した。これらの作家の先駆者は,ブラジルの文化人・知識人の目を国内問題に向けさせた《奥地の反乱》(1902)の著者エウクリデス・ダ・クーニャであるが,30年代はブラジルにとって政治的ラディカリズムの時代で,これらの作家もこれを免れていない。したがってアマードの《無限の土地》(1942),ラモスの《乾いた生活》(1938),レゴの《火の消えた製糖工場》(1943)のように,彼らが文学的円熟をみせるのは40年前後のことである。北東部地方以外では南部を描いたエリコ・ベリシモ(1905‐75),詩人ではカルロス・ドルモン・デ・アンドラーデ(1902‐87),女流詩人セシリア・メイレレス(1901‐64)が傑出している。第2次世界大戦後では長編小説《大いなる奥地》(1956)でギマランイス・ローザはブラジル文学においてマシャード・デ・アシスと並ぶ最高峰の位置を獲得している。彼の作品も地方主義的なようにみえるが,それを超えた普遍性を備えている。変形や合成による造語,古語や死語の再生,外国語の借用など,自由自在に言葉を操る才能と物語づくりの巧みさはしばしばジェームズ・ジョイスと比較されるゆえんである。そのほか戦後の代表的な小説家としては内省的,実存主義的な女流作家クラリセ・リスペクトール(1925‐77),前衛作家オズマン・リンス(1924‐78),詩人ではジョアン・カブラル・デ・メロ・ネト(1920‐ ),具象主義の理論家でもあるアロルド・デ・カンポス(1929‐ )らである。また近年盛んになってきたジャンルであるコラムの作家ルーベン・ブラガ(1913‐ ),フェルナンド・サビノ(1923‐ )もすぐれている。戯曲ではネルソン・ロドリゲス(1912‐80),ディアス・ゴメス(1922‐ )もロマンス主義期の喜劇作家マルチンス・ペナ(1815‐48)に匹敵する。

高橋 都彦

 

[ラテン・アメリカ小説のブーム]

 ラテン・アメリカ文学の名称で呼ばれるのは,言うまでもなく,メキシコに中南米を加えたスペイン語圏とポルトガル語圏の文学であり,したがってその成立は,これらの地域が宗主国からの独立を達成した,おおむね19世紀の前半より以前にはさかのぼらない。それは今日まで,わずかに1世紀半の短い歴史しかもたず,しかも19世紀のほとんど終りまで

ヨーロッパの文芸思潮を目まぐるしく追うだけで,独自の文体や主題をみずからの中からくみ出すにはいたらなかった。文体におけるラテン・アメリカ的なものの芽生えは,フランスの高踏派や象徴主義の影響のもとにモデルニスモ(近代主義)という思潮が誕生した世紀末を経て,1920年代以降の旧世界の前衛運動に触発されてウルトライスモ(超絶主義)なるものが起こった時期まで,まったく見いだせなかった。主題の面でも事情はよく似ていて,世界最初の社会革命とも言われるメキシコ革命が勃発した1910年を契機に,それに題材を求めた記録性の強い革命小説,同じくメキシコとアンデス地域で数多く書かれた原住民小説,圧倒的な大自然の脅威と闘う卑小な人間の姿を描いた自然主義小説などが文字どおり簇生(そうせい)して,その19世紀リアリズムの流れをくむ古めかしい技法にもかかわらず,新世界の特異な現実の中から独自のテーマを掘り起こすことに成功するまで,やはりラテン・アメリカ的なものは見いだせなかった。 結局のところ,ラテン・アメリカ文学が成熟期を迎えるのは40年代から50年代にかけてのことである。とくに注目すべき小説の分野に限って言えば,《伝奇集》や《アレフ》の作者ボルヘス,《モレルの発明》で知られたビオイ・カサーレス AdolfoBioy Casares(1914‐ ),《アダン・ブエノス・アイレス》のマレチャル Leopoldo Marechal(1898‐1970),《はかない人生》のオネッティといった,都市的な,反リアリズムもしくは幻想的な傾向の作家たちの出現であった。いわゆる第三世界的な社会的・政治的現実に密着した,呪縛された小説美学からの離脱が試みられたこの時期を通過しなかったならば,〈ブーム〉とまで呼ばれて世界的に話題になっているラテン・アメリカ小説の60年代以降の活況も存在しえなかった。

 問題の〈ブーム〉が生じた背景には,第2次世界大戦後に起こった都市化,それに伴う中産階級の増加,各地の大学が核となった読者層の拡大,スペイン内戦の結果としての多くの作家・知識人たちの亡命,といった有利な条件があった。バルセロナを中心にしたスペイン出版業界の積極的な支援という要因も忘れるわけにはいかないし,さらに,59年に独裁者バティスタを倒して社会主義政権を樹立させたキューバ革命によって与えられた,好ましい刺激も見のがすことはできない。革命に対立するもの以外はすべて可とする寛大な文芸政策を打ち出したカストロ政権は,文化機関である〈アメリカの家〉の創設や同名の文芸誌の発刊を通じて,互いに孤立していた大陸全体の作家たちの交流を増進すると同時に,それ以後に目ざましい活躍をみせることになる新人たちを多数送り出したのである。

 植民地的な遺制からの脱却の可能性を示すことによって,ラテン・アメリカの人々,とりわけ知識人らの精神を高揚させたキューバ革命の成功と符節を合わせたかのように,60年代の初めから次々に傑作,秀作と呼ぶべきものが発表されだした。アルゼンチンのペロン政権下の暗い時代の中での不条理な愛の‘1藤を描いたサバト ErnestoS??bato(1911‐ )の《英雄たちと墓》(1961),廃虚に等しい工場を舞台にして生の無意味を追究したウルグアイのオネッティの《造船所》(1961),フランス大革命のカリブ地域に及ぼした影響をたどったキューバのカルペンティエルの《光の世紀》(1962),メキシコ革命で成り上がった男の臨終の床の意識をなぞったフエンテスの《アルテミオ・クルスの死》(1962),実験的なスタイルで根なし草的な生を浮かび上がらせたアルゼンチンのコルターサルの《石蹴り遊び》(1963),ペルーの社会的現実を全体小説のかたちでとらえたバルガス・リョサの《緑の家》(1966)。そして,架空の町マコンドの創建と滅亡に仮託して新世界の歴史を描いたコロンビアのガルシア・マルケスの《百年の孤独》(1967)。素材も形式もきわめて雑多であって,強い物語性と前衛的な方法性といった抽象的なレベルでしか共通性を語りえないこれらの作品は,小説文学の命脈について一般になされている不吉な予言におびえていたパリ,ニューヨーク,ロンドンの読者たちを,そのうちに秘めた活力によって驚かし,安?T(あんど)させたのだった。チリの革命,反革命で始まった70年代から80年代にかけて,M. A. アストゥリアス,カルペンティエル,レサマ・リマ,コルターサルらがこの世を去り,才能ある新人の登場も多くはみられないという事態の中で,さすがに〈ブーム〉も鎮静した感があるが,それでも毎年のように,中堅的な作家たちによる話題作を提供し,〈ブーム〉の中で獲得した読者の関心を相変わらず集めている。

無限 infinity

有限に対する概念で,一般には限りがないことを意味する。とりわけヨーロッパにおいて哲学的・数学的に主題化され,〈無限論〉として展開された。無限論は二つに大別される。すなわち可能的無限と現実的無限である。前者は無限を限りなき増大・減少と考える立場であり,不定的進行を本質とする。後者では無限は有限を超えて完結して実在する。この区別は哲学的にも数学的にも基本的である。可能的無限は古代ギリシアの無限論であり,現実的無限は近代のそれであるということができる。古代ギリシアでは無限論は哲学と数学の交錯の上に成立した。そこでは無限はアペイロンapeiron と呼ばれ,文字どおり明確な限定,限界のない,形のないものである。この点からすると無限は消極的,否定的なものとならざるをえない。古代ギリシアの論理学によると,積極的に実在する無限は矛盾をもっている。かくて哲学および数学は,可能的無限において初めて無限を合理的に把捉することができた。この点でアリストテレスの哲学的無限論は典型的である。彼は《自然学》の中で次のように述べた。〈けだし無限なものというのは,それより外になにものも存在しないそれのことではなくて,かえってそれより外に常になにものかが存在するところのそれ,それが無限なものである〉。これに対して数学的無限論は尽去法(取尽くしの方法)である。この方法は現代的には無限級数の収束の証明法であるが,無限級数自体はギリシア数学では扱われていない。尽去法は求積問題において絶大な威力を発揮した。エウドクソスとアルキメデスがこれに功績がある。実際の証明は2段階を経て行われる。第1段階は,証明されるべき結果をあらかじめ獲得することである。第2段階では,その結果を否定して矛盾を導き,背理法をもって証明を完了する。この際アルキメデスの公理が必要となる。〈a と b が二つの量であって,a<b であるとすると,na>b となる自然数 n が存在する〉。この公理は証明の過程においては無限分割可能性を表し,可能的無限による証明を実現する。

 現実的無限が承認されるようになってきた背景には,キリスト教思想の影響が大である。例えばトマス・アクイナスは,神のみに現実的無限を認めた。神は最も完全な存在とされ,まさに無限者そのものである。そしてすべての有限を超越する。現実的無限は,この超越者の性格をもつ。中世に入ってから比較的容易に無限が論ぜられる理由はここにある。中世後期になると無限級数が自由に扱われている。現実的無限を思考するとき直ちに遭遇するのは,そのもつ矛盾である。この問題を本格的に考えた最初の人はニコラウス・クサヌスであろう。彼は神を無限なる半径をもった球になぞらえた。そしてその球ではいたるところに中心があり,周と中心が一致するという。彼は〈反対の一致 coincidentia oppositorum〉を主張したことで有名である。現実的無限には,全体と部分が等しいという奇妙な性質がある。これはユークリッドの《ストイケイア》の第5公理と相いれない。したがって現実的無限を正確に思考できるためには,新しい近代の論理学が必要である。近代初期の無限論では,ブルーノ,ガリレイ,カバリエリなど多くの人をあげることができる。18世紀のカントの《純粋理性批判》の弁証論は,本質的には哲学的無限論である。そこでは無限空間,無限小,自然数全体などが自由かつ大胆に考えられている。無限小の積極的な活用に関しては,カバリエリが著名である。彼の不可分量の方法は,積分法の前身の役割を果たした。微積分学の形成は,近代初期の現実的無限の数学の頂点をなす。特にライプニッツの微積分学においてそういうことができる。ただし無限小,すなわち微分の解釈については議論が分かれ,可能的あるいは現実的とされて決着がつかなかった。

 現実的無限の数学の完成は,19世紀後半の集合論にいたってである。集合論は解析学の合理的再建を果たすとともに,無限数の理論たる超限数論への道を開いた。集合論の創始者として,デデキントと G. カントルの2人が挙げられる。カントルは自然数を拡張して超限数を定義した。超限数は,超限順序数と超限基数に分かれる。前者は0,1,2,……,n,……,?O,?O+1,……の限りない系列をなし,後者は0,1,2,……,n,……,?o0,?o1,……,?o?O,……の限りない系列をなす。ここで,?O は最小なる無限順序数,?o0は最小なる無限基数である。この集合論では,先の現実的無限の矛盾は解決される。全体と部分が等しいことは,全体と部分が1対1対応をなすという形に変形される。これは矛盾ではない。かえってこの性質は無限集合の特性とされ,その定義に使用される(デデキント)。逆に有限集合(したがって有限)はこの性質をもたないものとして定義される。しかるに,集合論の成立後まもなく,さらに程度の高い矛盾が発見された。これが集合論のパラドックスである。多数のパラドックスの中で,ラッセルのものが最も有名かつ基本的である。それは〈自己を要素として含まない集合の絶対的全体〉を考えるとき生じる。現代の公理的集合論は,パラドックスを免れるように建設されている。そして超限数の系列の中で,極端に無限性の度合の高い数が研究できるようになった。これは巨大数の理論といわれる。⇒数理哲学 沢口 昭聿 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

無限 むげん Infinity 無限については、昔からさまざまな議論があったが、おもに2とおりの考え方がある。ひとつは、「限度がないこと」「いくらでも大きく、あるいは小さくできること」といった状況をあらわす意味での無限を考える立場。もうひとつは、無限そのものを数学的対象として考えようという立場である。この両方の考え方が、数学ではつかわれる。

たとえば、等比数列1, 4, 9, ...において、第n項anはn2であるが、こういうとき、「nがかぎりなく大きくなるとき、anは無限大に発散する」といういいかたをよくつかう。この場合の「無限大」は、anが無限大という数になるという意味ではなく、いくらでも大きくなるという状況をあらわしている。また、数列1, ?, ?,…では、第n項bnは1/nであるが、このとき、「nがかぎりなく大きくなるとき、bnは無限に小さくなる」などという。この場合も、bnは「無限小」という数になるという意味ではなく、いくらでも小さくなる(0に近づく)という意味である(→ 数列と級数)。

これに対して、19世紀のドイツの数学者ゲオルク・カントルがくみたてた集合の理論は、無限そのものを数学的対象として考える道をひらいた。カントルは、1対1対応という考え方をもちいて集合の「大きさ」が比較できることをしめした。2つの集合AとBの要素の間にちょうど1対1の対応をつける方法があるとき、AとBは対等であるという。つまり、集合として「同じ大きさ」だとみなしてよい。たとえば、集合{1, 2, 3}は、集合{a, b, c }と対等であり、集合{1, 2}とは対等ではない。明らかに、有限個の要素でできている集合Aは、その真部分集合B,つまりAの部分集合であってAそのものではない集合とは対等ではない。これに対し、集合{2, 4, 6,… }は、各要素2nに2n+4を対応させることによって、真部分集合{6, 8, 10,… }と対等になることがわかる。部分と全体が「同じ大きさ」になるという少し奇妙なこの性質が、無限集合の特徴なのである。カントルはこの性質、つまり真部分集合のどれか1つと対等になるという性質をもつ集合を無限集合、そうでない集合を有限集合と定義した。自然数全部の集合N、有理数全部の集合Q、実数全部の集合Rなどは、いずれも無限集合である。

しかし、NとQは対等であるが、NとRは対等ではない。つまり、NとQは「同じ大きさの」無限集合であるが、RはNやQよりも「大きい」無限集合である。カントルは、このように、無限にもいろいろな「大きさ」があることをしめすなど、無限という言葉に新しい意味づけをおこなった。

→ 集合論:数

Geora Cantor 1845-1918

ドイツの数学者。デンマークの富裕な商人の子として,ペテルブルグに生まれ,ドイツ,スイスの大学に学び,ベルリン大学で学位を得,1879年ハレ大学の教授となった。1872年に三角級数論に関する論文で実数,集積点,導来集合を定義し,集合論的位相幾何学への道を開いた。しかし彼の名は集合論の創始者として,よりよく知られている。74年の研究で無限集合の元の数(濃度)を定義し,有理数よりも実数のほうが多いこと,その後直線の点の数は平面の点の数に等しいことを証明し,当時の数学界を驚かせた。可算集合,計量数,順序数など集合論の基礎概念は彼に負うものである。彼の考えは当時あまりにも新奇なもので,批判的立場の学者も多かった。これに対し,彼が〈数学の本質はその自由にある〉といって弁護したのは有名な話である。しかし集合の考えを無限におし進めて,すべての集合の集合を考えると,矛盾が生ずるのであるが,集合とクラスを区別して組み立てた公理論的集合論の立場ではこの矛盾は解消する。カントルが提出した有名な仮設〈実数の数と自然数の数との間の濃度は存在しない〉は長く未解決であったが,公理論的集合論の立場から K. ゲーデル,P. J. コーエンによって,この仮設は集合論の公理と独立であるということが示され,解決を見た。集合論の現代数学への影響は甚大で,現在では数学全分野が集合論の言葉で書きかえられ,そのため従来直観的に把握されていた諸概念が透明な形で定式化され,数学が著しく理解しやすくなったのである。

 

集合論

set theory

集合として扱われるものを使った推論。集合という概念を定義することを提案し,有効な理論を打ち立てたのは G. カントルである。カントルは次のように集合を定義した。〈集合とは,われわれの直観あるいは思考の対象であって,確定し,かつ明確に区別されるものを一つのまとまりとして集めたものである〉。すなわち,われわれの直観または抽象的思考によって考えうるものを元(または要素)と呼び,そのような元のうち,いくつかの条件を満たすものを集めるというようにして集めたものが集合であって,ある元がその集合に入っているかどうかとか,二つの元が相等しいかどうかということが明確になっていることが要請されているものである。 カントルが構成した集合論の主要な部分は,集合の元の多さを示す濃度の概念,さらには順序数の概念の導入とそれらの理論の構成であるといえる。しかしながら,集合の定義があいまいさを内蔵しており,そのためにいくつかの逆理が生まれた。1897年にブラリ・フォルティ Cesare Burali‐Forti(1861‐1931)は,〈すべての順序数の集合〉を考えて矛盾を導き出した。カントル自身も99年に〈すべての集合の集合〉M を考えると,M の部分集合の全体は M と一致し,カントル自身が1890年に証明した次の定理に反するので矛盾を含むことに気づいた。定理〈どんな集合 M についても,M の部分集合全体の集合は M より大きい濃度をもつ〉。また,〈すべての集合の集合〉M は M自身も含むという変なことになるので,B. A. ラッセルは1905年に,〈自身を元としては含まない集合全部の集合〉N を考え,次のような矛盾を指摘した。N∈N なら N の定義によって,N?WN。またN?WN なら,N の定義によって N∈N。このようなことから,集合論の論理的基礎を再検討する必要が感じられ,その一つの方法として公理による構成が考えだされた。現在,集合論の公理系として利用されているものには二つの体系があり,一つはツェルメロ=フレンケルの集合論 Zermelo‐Fraenkel set theory,他はベルナイス=ゲーデルの集合論 Bernays‐G?ddel set theory と呼ばれている。いずれにしても集合の構成を規制することによって,心配のない理論にしようというのである。これらの公理系によれば,(1)自然数全体は集合をなし,(2)一つの集合の部分集合全体も集合をなし,(3)二つの集合の直積 A×B も集合をなし,(4)集合 A から集合 B の中への写像 f があれば,f の像全体 f(A)も集合であり,さらに,(5)一つの集合 A におけるある条件(これも公理によって規制される)を満たす元の全体も集合であるので,よほど奇妙な集りを考えないかぎり集合であると思ってよいだろう。カントルが集合と定義した内容のものは必ずしも集合ではないので,それを領域と呼ぶことがある。

 また,公理のうちで,特別視されているものに選択公理がある。それは,〈ある集合 M の部分集合の集り N があり,N の各元は空集合でないとき,N の各元 s に対して,s の元を一つずつ対応させることができる〉というものであり,何となく当然のように聞こえるが,これを公理として取り上げる理由は,N が非常に大きい濃度をもっているかも知れないので,〈ものすごい無限回の操作をいっぺんにすます〉という特殊なことを含んでいる。それに対し,他の公理は〈有限の手続による〉と考えられる操作しか含んでいない。無限回操作を含むから,選択公理を認めるのは危険であるという考えもあるが,〈他の公理全体の系が矛盾を含まないなら,選択公理を加えた系も矛盾は含まない〉ことが証明されているから,選択公理は認めてもよいと考えられている。

 

[連続体問題]

 可算無限の濃度と連続体の濃度(実数全体の集合の濃度)との間に他の濃度は存在するか,というのが連続体問題である。もっと一般に,?E が無限の濃度のとき,2?E と ?E との間に他の濃度があるかというのが一般連続体問題である。そして,それぞれについて,〈存在しない〉とする命題が,連続体仮説,一般連続体仮説である。連続体仮説(または一般連続体仮説)を公理として採用したとき,通常の公理系とは独立であることが証明されている,ということは,集合の構成を制限することによって一般連続体仮説の成り立つような集合の体系を作ることもでき,また,反対に,実数全体の集合の部分集合を適当にとれば,濃度が可算無限より大きく,実数の濃度より小さいものがとれる(が,それはふつうの構成法ではできない)ことを示している。

 

[点集合論]

ある次元のユークリッド空間 E の部分集合は,E の点を元としているので点集合と呼ばれる。点集合についての理論を点集合論と呼び,これが集合論の主要部分と考えられた時代もあるが,その内容の大部分は,現在では〈位相空間の部分集合〉として一般化された立場で扱われるようになった。⇒集合 永田 雅宜(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

連続体問題

continuum problem

実数全体の濃度を c または?oで表し,連続の濃度もしくは連続体の濃度という。G. カントルは,対角線論法によって連続体の濃度は可算の濃度(自然数全体の濃度)a より真に大きいことを示した。さらに彼は a<b<c であるような濃度 b をもつ集合は存在しないと予想し証明を試みたが成功しなかった。可算の濃度の次は連続体の濃度であるという仮説を連続体仮説という。カントル以降カントルの素朴な集合論を公理を使って再構成する公理的集合論が展開され,連続体仮説の正否をめぐって研究が続けられた。1940年,K. ゲーデルはツェルメロ E. F. F. Zermelo(1871‐1953)とフレンケル A. A. Fraenkel(1891‐ )によって提出された集合論の公理系がその内部に矛盾を含んでいなければ,この公理系(ZF 公理系)に連続体仮説と選択公理をつけ加えたものも内部に矛盾を含まないことを示した。さらに63年,コーエン P. J.Cohen(1934‐ )は,ZF 公理系と連続体仮説と選択公理は独立であることを示した。したがって ZF公理系と選択公理を使って連続体仮説の正否を決定することはできず,連続体仮説を正しいとしても,正しくないとしても集合論を展開することができる。これは,ZF 公理系は部分集合を作るのにも,少し条件を課しているので,素朴な意味での部分集合全体を考えることなく集合論の一つの体系が作れることになってしまったので,こういう結果になったのである。

 

カバラ

Kabbalah ヘブライ語で「うけつがれてきた伝承」の意味。広義では、あらゆる形態のユダヤ教神秘主義の総称。狭義では、13世紀にスペインと南フランスのプロバンス地方で「セーフェル・ハ・ゾハール」(「光輝の書」、たんに「ゾハール」ともいう)を中心に展開した秘教的な神智学をさし、その後、すべてのユダヤ教神秘主義運動の源泉となった。

もっとも古いと考えられるユダヤ教神秘主義は、1世紀にはじまったもので、当時有力であったヘレニズム的な天体神秘主義の一変種であった。この天体神秘主義では、熟達した修行者が、瞑想と呪文をとなえることを通じて、恍惚(こうこつ)状態で7つの天を通過してその外にまで旅をするとされていた。そのユダヤ教的変種では、修行者は恍惚のうちに神の玉座、すなわちかつて預言者エゼキエルがみたという水晶のようにかがやく翼をもった戦車(旧約聖書の「エゼキエル書」1章)を目にすることを希求した。

 

中世のカバラ

ユダヤ教神秘主義のもっとも重要な形態である中世スペインのカバラは、恍惚体験というよりもむしろ、神的世界の性格と、それと被造世界との関係における秘教的な知識にかかわるものであった。中世のカバラは、新プラトン主義とグノーシス主義の系統をひく神智学的な体系であり、それが象徴的な言語をもちいて表現された。

この体系をもっとも明確にあらわしたものが「ゾハール」である。これはスペインのカバラ学者モーゼス・デ・レオンにより1280~86年の間に書かれたが、2世紀のラビ、シメオン・ベン・ヨハイの著作というふれこみで広がった。

 

10のセフィロート

「ゾハール」は神性を、無数の様態からなるダイナミックな力の流動としてえがきだす。

人間のあらゆる思惟をこえたかなたに、神が彼自身のあり方において存在する。それは、不可知で不変の存在として「エン・ソーフ(無限定のもの)」とよばれる。

これに対し、被造世界を通じて知りえる神の諸様態ないし諸属性は、このエン・ソーフから、段階的に区別された10のセフィロートのかたちで流出したものである。セフィロートとは、「数」をあらわすセフィラーの複数形で、「領域」ないし「水平面」を意味する。

10のセフィロートは、以下のようによばれる。(1)ケテル(王冠)、(2)ホクマー(知恵)、(3)ビーナー(理解)、(4)ヘセド(慈愛)、(5)ゲブーラー(公正、力)、(6)ティフェレト(美)、(7)ネツァー(耐久、勝利)、(8)ホード(尊厳、栄光)、(9)イェソード(土台)、(10)マルクート(王国)。

セフィロートは、被造世界にある万物の祖型でもあるので、セフィロートの働きを理解すれば、宇宙と歴史の内在的な働きを解明することができるとされる。

その際に「ゾハール」は、ユダヤ教とイスラエルの歴史に宇宙論的で象徴的な解釈をほどこすが、そこではトーラー(律法)や諸戒律が、流浪の境遇にあるイスラエルの人々の生活ともども、神の内的生命の中で展開する出来事や諸経過を象徴するものとしてあつかわれる。このような解釈をほどこされることによって、戒律をただしく遵守することが宇宙的な意味をおびるわけである。

 

ルリア派のカバラ

「ゾハール」のもつこのような宇宙的な側面は、16世紀のイサーク・ルリアによって劇的に発展させられた。ルリア派のカバラの体系は、1490年代にイベリア半島から追放されたユダヤ人難民たちの過酷な体験を表現したものといえる。すなわちそれは、この体験を神的世界にまで反映させたものなのである。

この体系によれば、エン・ソーフは、世界が存在するための余地をあたえるために自己自身の内部に撤退(ツィムツム)してしまった。しかしこれによって、悪にとっての余地もまた生じたのである。神的な光をうけるはずの器が破損し、光の火花が悪の殻(ケリッポト)にとじこめられてしまうと、宇宙的な規模の破局が生じる。人間の使命は、祈りと戒律のただしい遵守によって破壊された器を修復(ティクーン)し、世界の贖(あがな)いと神性の再合一を可能にすることにほかならない。

このようにしてカバラは、民衆的な広がりをもつメシア(救世主)運動に変容した。そしてそれがのちに、サバタイ派の熱狂的なメシア主義と18世紀のポーランドのハシディズムを生みだすことになる。