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バベルの図書館

幸村真佐男


CTG(computer technique group)の時代,私は我々CTGのコンピュータグラフィックスの仕事を3つに分類していた。

1. データ変換。ケネディーやモンローのデータを星印なり、ランダムウオークなり、格子で表現すること。

2. トポロジー変換.閉曲線の位相的な性質は変化させずに形態を変化せる作品のタイプ。

3. パターン生成。造形文法をプログラムで与えてパラメータは乱数を生成する。

そのように乱数列の生成によって自動パターン生成機械としてのコンピュータ。そしてそのすべてをリストアップすることでカタログ化すること。RandomランダムとCatalogueカタログの思想である。コンピュータはどのような機械か?これはコンピュータが発明されて以来議論されてきた問題だ。その一つの回答は「コンピュータは繰り返すことで問題解決をする装置である。」大小の比較とか同じか同じでないかの判定をしつつ、また変数を変化させながら、決められた回数をただひたすらに繰り返すこれがFortranであればDO CONTINUE のdo loop Basicであればfor next のloopコマンド。それはコンピュータアルゴリズムの一つの本質である。

  私の非語辞典シリーズの仕事は河原温よりも何よりも高松次郎の「The Story」に強く影響されている。彼の場合はすべての物語のリストアップを彼が手で打つタイプライターで成そうと言う試みであったが、私の場合はとりあえず出来そうなことを出来そうな手段で実現させよう。もしくはそれを予感させよう。といったところである。全ての「物語」をリストアップすることは放棄し「単語」なり「語彙」が浮かび上り、そのすべてをリストアップすることを目標とする。文章や発話における、単語の役割。人間の概念形成における単語の重要性にとりあえず注目する。1982年 Media Bum "オーディオヴィジュアルショウ”でのメディアパフォーマンスではNEC-pc8801を使ってアルファベットによるNon-word Dictionaryを展覧期間中CRTのデスプレイ装置に昼夜連続表示することから始まった。1983年 現代芸術祭“芸術と工学” 富山県立近代美術館ではNEC-pc9801と16ドットのワイヤープリンターを使って非語辞典パフォーマンスとしてカタカナの4拍文字の組み合わせをリストアップした。その後その11巻を黒表紙で上製本した。この時友人から「2001年宇宙の旅」のアーサクラークが書いた短編「神々の名前」との近似性の指摘を受けた。それはチベットの僧侶が神々の名前をリストアップしそれをコンピュータにさせることによって世界の終焉が加速される話である。

 1984年 ハイテクノロジーアート“輝”展 東京 御木本ホールと1985年「……はれ」展 千葉県立美術館では同じ装置(NEC-pc98と16ドットのワイヤープリンター)を使ってJIS第一水準約4000字の2文字の組み合わせの2言絶句全集を完成させた。全部で16巻ブルーの製本分がそれである。五言絶句集は1986年 ハイテック・アート’86電脳遊園 名古屋:松坂屋本店 東京:池袋サンシャインからである。そのころからボルヘスの短編を読むようになった。そして私の仕事がボルヘスによって予言されているような気にさせられている。


バベルの図書館はボルヘス流の世界または宇宙のメタフアだ。《宇宙を構成している原子全体の数は、途方もない数とはいえ、有限であり、ただ有限のものとして(これもまた途方もない数ではあるが)、有限数の順列組合わせを許容し得るのである。無限の時間の中では、可能な順列組合わせの数はいつかは到達されざるを得ず、宇宙は繰返すはずだ。ふたたびきみは同じ胎から生まれ、ふたたびきみの骨格は成長し、ふたたびこの同じページがきみの同じ手に触れ、ふたたびきみの信じがたい死の時刻に到るまでのすべての時間が経過するであろう。》『循環説』

循環説の中で語られる人間の操作可能性について言えば、人間一人が意識し、認識し、また操作する点は、有限であり、約50億人でやはり有限人数しかいないわけであるから人類総体の認識の範囲、操作の総量も高々可付番の集合に過ぎない。従って今まで人類が印刷された新聞、雑誌、書籍、総てのページも高々可付番の集合にすぎない。

というのは西洋近代のモダニズムの思想である。連続体である宇宙総体を連続体である我々人間はどのように認識するのか。その時デジタル化され得ない認識の連続性はあるのか。連続体を連続体のままに認識する方法はあるのか?

《カントルの美しい戯れとツァラトゥーストラの美しい戯れとの接触はツァラトゥーストラにとって致命的なものである。もしも宇宙が無限数の項から成るとすれば、厳しくも、無限数の組合わせをも包蔵し得ることになり―――回帰の必然性は打ち砕かれてしまう。》

ボルヘスの立場はカントールの集合論をふまえながら、無限には段階があり高々可付番の集合である「アレフ0(ゼロ)」と、平面に含まれる点の無限集合である「アレフ1」の意識的な混同、もしくはそれがわれわれの人生や意識にどのような影響をもたらすかをきわめて根源的に突きつめて思考しそれをいわば究極の短編小説の形にしたものと言える。ロマン(大きな物語)を喪失したボルヘスは小さな日記にむかわずに、更に大きな我、おおきな全体、存在総体、そしてそれらと個人の人生との関係性にむかう。永劫回帰がそれであるし《「図書館は無限であり周期的である」どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現われることを確認するだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐのである。》

それはちょうど砂の本の書き出しが.カントールの集合論への言及で始まるように、《線は無数の点から成り、平面は無数の線から成る。体積は無数の平面からなり、超体積は無数の体積からなる……。》「砂の本」はいみじくもインターネットのメタフォーを表わしているように思われる。「砂の本」は一冊の内に「バベルの図書館」全体を内包している。世界はもともとハイパーテキストであり、その天人相関関係にあり縮図であり、アレフでもありうる人間の意識も本来的にはハイパーテキストである。西洋近代が意識や思考を線的なものにしているに過ぎない。

あたかも「砂の本」のボルヘス気取りで、インターネットを「砂の本」にみたててこの原稿を書くべき大事な何日間をネットサーフィンに没入した。もっともっと時間が足りないしまだまだ読みつづけたい。まだ宝物であり、所有(閲覧?)の幸福に浸っている時だ。確かにインターネットは怪物である。それは悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体である。確かに淫らなページもあるし高貴な聖なる宗教への誘いもある。夢の日記もなかなか多い。哲学的論考もあれば衒学的論文の自動生成のページもある。辛うじてブックマークやサーチエンジンが回帰を保証している。例えばボルヘスやバベルの図書館に関してGarden of Forking Pathsとなずけられたページがなかなかよくまとまっている。http://rpg.net/quail/libyrinth/borges/またこのホームページhttp://jubal.westnet.com/hyperdiscordia/library_of_babel.htmlにはバベルの図書館の内部透視図がコンピュータ・グラフィックスで描かれているし「バベルの図書館」の英文テキストが全文掲載されている。日本語のページでは渋沢龍彦とボルヘスの比較を論じた(http://www.toyama-u.ac.jp/~atogami/sibusawa/kenkyu.html ※リンク切れ)もある。また平凡社の百科事典やOEDのCD-ROMを「砂の本」のようにばらばらと読みつづけるのは楽しいことだ。それは大きな開架式図書館で何日か過ごした青春を思い返す。読書の質は随分とちがうような気がするが。「砂の本」のようにまだ本の森の中に隠す気にはならない。

神々の巨大な著作は誰がどのように全部読破するのか?。人間の全ての絵画作品や論文や小説はこの偉大な著作のほんの一部に過ぎない。