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マンフォ-ドはモダニストか?

技術と芸術における表象の役割の重要性を説く。
マンフォード Lewis Mumford 1895~1990

アメリカの文明・社会批評家。ロング・アイランド生れ。ニューヨーク市立大学で P. ゲッデスから都市計画論を学び,1923年ごろアメリカ地域計画協会Regional Planning Association of America を設立し,その理論の普及に努める一方,グリーンベルト都市の諸計画を標榜した。スタンフォード大学,ペンシルベニア大学などの教授も務めたが,もっぱら在野の立場から近代文明を批判する評論活動を行った。都市の芸術性,建築の社会的側面を強調する論評は世界的に注目を集めた。処女作《ユートピアの系譜》(1922,邦訳1971)以来,《都市の文化》(1938,邦訳1974),《歴史の都市――明日の都市 The City in History》(1961,邦訳1967)など30余の著書がある。  黒川 直樹(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. アメリカの社会哲学者・歴史家・都市計画者。ニューヨーク州フラッシングに生まれる。ニューヨーク市立大学、コロンビア大学、ニューヨーク大学、そして独立した高等教育機関であるニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでまなぶ。マンフォードは都市の歴史を、おもに技術史の観点から幅ひろく考察した。中世都市を高く評価して、現代社会はテクノロジー文化によって非人間化されており、感情、感性、そして倫理を文明の核心にすえる視点へ回帰しなければならないとした。

彼はグリーンベルトの推進など、建築や都市計画の分野でも貢献した。また、「ソシオロジカル・レビュー」(ロンドン、1920)や、アメリカの若手著述家の作品の年報である「アメリカン・キャラバン」(1927~36)などといった多くの出版物の編者でもあった。1955年にアメリカ芸術文学協会会員に選出され、64年には合衆国大統領自由勲章をうけた。著作には「都市の文化」(1968)、「人間の条件」(1944)、「歴史の都市」(1961)、「解釈と予測」(1973)、「スケッチズ・フロム・ライフ」(1982)などがある。

 

技術

技術をどう定義するかをめぐって,かつて日本では有名な論争が展開された。この技術論論争は,〈技術は労働手段の体系である〉とする労働手段体系説と,〈技術は人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である〉とする意識的適用説との間で争われた。前者の概念規定を提唱したのは,1930年代の唯物論研究会で,相川春喜,戸坂潤,岡邦雄らがその代表的論客であった。後者の創始者は物理学者の武谷三男であり,太平洋戦争敗戦直後に,この学説が広く知られるようになった。どちらの学説もそれぞれ,技術と呼ばれる現象のもつ基本的特徴をとらえており,それぞれ有効な定義である。また両者は互いに矛盾することもない。分析視角に応じて使い分ければよいのである。にもかかわらず日本で,概念規定をめぐる技術論論争が起こったのは,どちらの学説を支持する人々も,技術の概念規定を,包括的なものでなければならないと考えたことによる。実際には,技術と呼ばれる現象のもつ基本的特徴を余すところなく,一節の文章で記述することは不可能である。技術論論争が当事者以外の関心をほとんど喚起することなく,忘れ去られようとしているのも無理はない。

 日常語としての用法をみるかぎり,技術とは最も広義には,人間がある目標をもった行為をなすとき,行為を目標の実現に結びつけるために用いるわざ,を意味する。たとえば論争の技術といった用法がある。しかしより限定的には,もっぱら生産活動に関連づけて技術という言葉が用いられる。人間にとって有用ななんらかの生産物を作り出すことを目標とする行為において動員される道具立て,およびそれらの使用法についての知識の体系,またはその個々の構成要素が,技術と呼びならわされているのである。これ以上分析的に,技術の概念規定を行うことは,特殊な目的をもつ場合を除いて,必要ではない。

[技術と科学] 過去には技術は,もっぱら経験的知識の蓄積のうえに発達してきた。それを担ってきたのは職人であり,その習得方法は,徒弟制度のもとでの実務を通しての修練であった。職人と学者とは明確に区別されていた。学者的伝統においては主たる対象は〈書物〉であったのだが,職人的伝統では〈自然〉が仕事の対象とされた。また学問を担った人々が社会的地位の高い知識人であったのに対し,技術の担い手は下層の職人であって,両者の間の交流はあまりなかった。これを一言でいえば,科学と技術とが別々の社会活動として併存していた,ということである。

 技術というものは有用な生産物を作り出すための手段であるが,そうした手段は必ずしも出来合いのものばかりではなく,ある現実的目標を達成しようとする行為の途上で,新たに生み出さねばならないものである。この場合,直接的に役立たずとも,技術そのものを有用な生産物とみなしうる。それを実現するための人間活動が,技術開発にほかならない。科学研究と技術開発とは,かつてはほとんど結びついていなかったが,今日では密接に結びついている。科学研究の目標は,自然界についての新しい知識を学術論文という形で発表することであり,技術開発の目標は,有用な生産物を作り出すことである。しかし実際には,科学研究が論文発表と同時に,実用的成果の獲得を目標として追求することはなんら差支えないし,また技術者が技術開発の途上で得られた新知識を論文として発表することには,種々の制約がつきまとうけれども,原則的には可能である。このように今日では,科学と技術との間に大規模な相互浸透が起きている。そして,一つの研究開発プロジェクトのなかで,科学と技術が同時に追求されることも珍しくなくなっている。

 たとえば制御核融合のプロジェクトについてみると,その究極目標は,商業的に他の電力生産方式と競合できる核融合発電炉を完成することであり,その意味でこれは技術開発プロジェクトである。しかしそれは同時に,プラズマ物理学をはじめとする多くの科学分野の専門家の参加を必要とし,また彼らはその研究成果を学術論文という形で発表することができる。つまりそれは同時に科学研究プロジェクトでもある。また X 線天文学を例にとると,この科学分野は宇宙の X 線源の物理的性質の解明を目標としており,それは生産活動と直接のつながりはない。しかし人工飛翔体(ロケット,人工衛星)をはじめ,さまざまの宇宙技術を道具立てとして存分に活用することによってはじめて,X 線天文学が可能となる。そしてそうした宇宙技術は出来合いのものではなく,科学研究に効果的に役立つために,同時並行的に開発されるのである。以上二つのプロジェクトのうち核融合の場合は,技術が目的で科学が手段という性格が強く,X 線天文学の場合は逆に,科学が目的で技術が手段であるとみることができる。だがいずれも,一つのプロジェクトのなかで科学と技術とが連携している好例である。 このように現代では,科学と技術との関係はきわめて密接となり,科学技術という言葉が日常語として使われていることにも象徴されるように,両者はしばしば混同されている。それは現実の趨勢 (すうせい)を反映したものであるから,とくに不都合をきたさないかぎり非難するには当たらないが,いくつかの問題点をはらんでいることも否定できない。その一つは,科学と技術とのかかわり合いの変化を歴史的にふりかえることが不可能になる,ということである。科学技術はすぐれて20世紀の産物であり,近代的な工学の成立以前は,科学と技術との関係は疎遠であった。両者を一つのプロジェクトのなかで同時並行的に進める,というスタイルが興隆するのは,さらにのちの第2次大戦期からである。そして将来にわたって科学と技術との間に密接な関係が保たれる必然性はない。また,いきなり科学と技術とを一体のものとしてとらえるよりも,両者をひとまず分析的に区別してその絡みあいの構造を解析したほうが,現代技術についてより深い理解に到達できることもまた明らかである。

[技術と工学] 科学と技術との中間に位置するのが工学である。工学とは学問分野化した技術のことである。公共的な言葉(数学および厳密に定義された専門用語の体系)でもって定式化できる理論体系を確立し,かつそれを習得させるための教育制度を樹立することによって,技術は工学となる。ただし技術がすべて工学に吸収されるわけではない。技術とテクノロジー technology,工学とエンジニアリング engineering をそれぞれ対応づけようとする流儀があるが,これはあまり適切ではない。日本語の工学という言葉には,学問分野化した技術という含蓄が顕著にあらわれているが,エンジニアリングとテクノロジーとの間には,それほど明確な境界線は引けない。テクノロジーといえば〈学〉としての性格が強調されるとは必ずしもいえない。その意味では日本語のほうが,現代技術を分析的にとらえるうえで適している。たとえば日本語で技術者と工学者とははっきり意味が異なるが,英語ではエンジニア engineer が双方の意味を兼ねて使われている。工学のほかに技術学という言葉があり,工学と技術との中間項として用いられることが多いが,しかしこれは技術論の世界でのみ通用してきた言葉であり,実社会で使われることはまれである。また分析的にも,工学と技術の区別ほど有効性をもつとは考えられない。したがって一般には,技術学という言葉は不要である。

 学問分野化されることによって,技術は科学と類似した多くの特徴を帯びてくる。それはまず技術の自律 autonomy を助長する。かつては技術は有用な生産物を作るための手段であったが,近代工学の成立以後は,自然界の法則性の解明がそれ自体として目標となる傾向があらわれ,工学者に対する評価基準が,有用な製品を開発することから,新しい知見を論文の形で発表することへと移行する。ここで業績評価の担い手となるのは,工学者のコミュニティ(同業者仲間)であって,その新技術に基づく製品の売手や買手ではない。しかし技術の自律にもおのずと限度がある。大局的にみれば技術は科学とは異なり,生産活動のなかに組み込まれており,自足的なシステムを形づくることはできない。

[技術と社会] 技術は現実的目標を達成するための道具立てである。一方,人間社会を支配する価値観は,きわめて多様であり,したがってそれぞれの社会ごとに,目標となることがらは異なってくる。そして目標が異なれば,その達成のために援用される(または新規に開発される)道具立ての組合せも,それぞれの目標に適した,互いに異なったものとなる。つまり技術は社会によって方向づけられる。技術には時代と地域を超越した必然的な発展経路は存在しない。たしかに技術は,同一の用途を満たすための製品が,時代を経るにつれて,ますます高性能となり,また量的にも増大する,という意味で累積的な性格をもつ。そうした累積的発展が効果的に行われるようになったのは,近代工学の成立以後と考えられる。専門家集団の成立と,その内部における技術情報の公共的な言葉での伝達システム――それを可能にするのが,近代科学と共通する数量的・実証的方法である――の確立が,累積的発展をもたらしたのである。一足早く科学という人間活動の領域で確立された,累積的発展を可能とするシステムが,工学を媒介として,技術へと波及したわけである。しかし技術が累積的発展の性格をもつことは必ずしも,その発展が単線的に進められることを意味しない。複数の路線があって,それぞれが累積的発展のパターンを示すことがあってもよいし,また一つの社会で路線の切替えが行われてもかまわない。

 〈もう一つの技術 alternative technology〉(略称AT)の思想は,そのような見地に基づいて登場してきた。その提唱者によれば既成慣行の技術は,生態系を無視して大量生産を指向するものであり,それによって環境破壊や資源浪費がもたらされる。そうした現代技術に基づく工業文明は永続性をもたない。また現代技術は,自然と人間との関係を敵対的なものとするだけでなく,人間相互の社会的関係にもひずみをもたらしている。それは利潤と戦争によって動機づけられた,中央集権的な社会体制を維持するために好適な技術ではあるが,人間の主体性とそれに基づく自由な協同関係の形成を保障する分権的社会にはそぐわない。また現代技術の開発と運用それ自体が,少数のエリート専門家によって独占的に進められており,一般人はそれに異議をさしはさむことはできず,いやおうなしに技術革新に適応させられる。その意味で既成慣行の技術は,反民主的な社会体制を支える主要な動因であるばかりでなく,それ自体としても反民主的である。

 〈もう一つの技術〉の提唱者たちは,現代技術の特徴を上述のようにとらえ,それとは異なる選択肢として,生態学的に健全で,人間どうしの敵対的関係を生み出さず,農村型の分権的社会の維持に貢献する新しい等身大の技術の可能性を説く。それはすべての人間が開発と運用に参加することのできる技術である。具体的には,風力発電やソーラーハウスなどの代替エネルギー技術が,その代表例として挙げられることが多い。たしかにそれらは,現代文明を象徴する巨大な原子力発電所と好対照をなす。〈もう一つの技術〉の思想を,エネルギー問題に即して具体化した一つの試みとして,イギリスのロビンス Amory B. Lovinsの〈ソフト・エネルギー・パス soft energy path〉が挙げられる。一方,第三世界の開発戦略に関しては,先進工業国から先進技術の粋をこらした巨大な生産設備を導入して一挙に近代化をはかるよりも,それぞれの地域の要求に見合った中小規模の技術を広めていくことを重視すべきであるという見解を,〈もう一つの技術〉の提唱者たちはとった。これは〈適正技術 appropriate technology〉と呼ばれる。

 〈もう一つの技術〉の思想的意義は,技術発展にも複数の路線があり,また技術の選択と社会の選択とが不可分の関係にあることを,単純明快な図式によって示したことにある。エコロジカルな分権的社会を理想化し,既成慣行の工業文明との二者択一を迫るという,社会運動に特有の行き方をとったため,技術と社会のかかわりについての緻密(ちみつ)な分析は妨げられたが,以前からマルクス主義者の間で支持を得てきた,技術進歩と社会進歩とを同盟関係にあるとみなす思想――そこでは,技術進歩が資本主義という経済体制を揺るがす動因となり,また反対に資本主義のもとでは技術進歩が著しくゆがめられる,と考えられた――を否定したことの意義は大きい。〈もう一つの技術〉の思想が,それ自体としていかに粗雑であるにせよ,技術の階級性についての過去のあらゆる議論につきまとっていた技術進歩性善説を乗り越え,技術進歩へのより幅広い理解を可能にしたことは特筆される。

 どんな種類の社会問題も,技術的手段によって解決することができ,技術進歩によって引き起こされた社会問題もまた,究極的には技術進歩によって克服される,という見解がある。これを技術万能主義という。だがこれは技術が人間の社会的行為に組み込まれた形でしか存在しないものであることを看過した思想である。社会のすべての成員の間で目標に関する合意が得られていなければ,共通の目標を達成するための技術的手段を動員することはできない。もちろん社会のなかに利害対立がたとえ存在しなくても,社会問題を解決する技術的手段が見つかる保障はまったくない。以上の議論は,技術進歩のもたらした社会問題にも当てはまる。しかし,技術の生み出した問題は技術によって解決されるという思想には,上記の困難に加えて,技術開発という行為の本質に基づく困難がある。有用な生産物を作り出すことが技術開発の目標である。しかし何が有用であるかの判断は近視眼的に下されるのが常である。当座の目標を達成できればよいからである。それゆえ技術開発は刹那的に進められる。それによって明白かつ顕著な災害が発生した場合にのみ,それを解決するための技術的手段が開発され運用されるが,それはつねに後追いにとどまり,また当座の問題が目立たなくなればその任務を終える。しかるに現代技術は時とともに,自然および社会にますます大きなインパクトを与えており,後追いの対策だけでその悪影響を断つことはできない。そこで登場したのが,テクノロジー・アセスメント(略称 TA)の考え方である。 テクノロジー・アセスメントの考え方を提唱したのは,アメリカの政治家エミリオ・ダダリオである。この考え方は,技術進歩に社会的制御を加えるための現実的提案として意義がある。しかしその背景にあるのは,技術開発の成果を社会的摩擦をなるべく引き起こさずに社会に定着させるために,技術開発のネガティブな副作用を事前に察知しその打開策を講じよう,という思想である。それは技術開発の推進者の立場からの,その社会的制御のための提案なのである。

 技術は社会発展の主要な動因であるといわれる。発展ということが必ずしもポジティブな価値をもつとは限らないと断り書をつければ,この見解は正しい。とりわけ現代では,経済的・軍事的繁栄が技術によって支えられている。国際関係において技術は,経済的・政治的・軍事的なパワーとして機能する。そうした現実をふまえて,〈技術立国〉(テクノ・ナショナリズム)の思想が19世紀以降,技術に関する支配的なイデオロギーの一つとなり,今日に至っている。先進国からの〈技術移転〉を促進し先進国との間の〈技術格差〉を縮めようと後発国が努めるのは,現代技術がパワーとして絶大な影響力をふるっていることの反映である。あらゆる種類のパワーについて成り立つことは,それが無制限に是認さるべきではなく,国際的に規制されねばならぬということである。他国に脅威を与えるという点では,軍事力と技術力との間に本質的な差異はない。日本では明治以来,技術立国の思想が自明の真理として理解されているが,それが弱肉強食のイデオロギーであることは留意されねばならぬ。

 技術は元来,軍事ときわめて深いかかわりをもっている。人類文明が拡張指向をとりつづけるかぎり,その手段としての技術が,強さを不断に追求しつづけることは避けがたく,そのことがまた技術と軍事とを結びつけるきずなとなっている。とくに第2次大戦期の科学動員(正しくは科学技術動員)を契機として,多くの先進工業国で,国家の主導性のもとで技術と軍事とが緊密に結びつけられるシステムが作られ,現在に至っている。そこでは科学と技術とを合わせた研究開発費の過半が国家によって支出され,国家負担分の過半が軍事目的に使われることが常識となっている。現在,世界の研究開発費総額の20%が軍事目的に投入されていると推測されているが,この数字は,軍事をつかさどる政府機関が支出する研究開発費のみをあらわしており,軍需産業が兵器開発のために自前で投入する資金(それは兵器の売却によって回収する)が含まれていない。それを加算すれば,研究開発費に占める軍需の比率は大幅に増加する。このように現代技術は,他の人間活動と比較にならないほど深く戦争準備と結びついている。そうした国家主導・軍事中心という現代技術の基本的性格を,最もよく体現しているのは,アメリカの技術である。それと比較すると日本の技術は,民間依存・経済中心という基本的性格を有する。これは世界の主要先進国のうち,日本だけがもつ特異な性格である。それは戦後日本に形成されたきわめて特殊な歴史的環境の所産である。日米安全保障条約のもとで日本の軍事力が,経済力と比較にならないほど弱体でありつづけたため,軍事技術への動機づけが働かなかったのである。しかしこうした歴史的環境はきわめて不安定である。これからの日本技術の構造が欧米型へと接近していく可能性は大きい。そのとき商品化に強いといわれる日本技術が,その性格をどのように変えていくかは,興味深い問題である。日本近代技術史を国際的視野から見直せば,技術発展がいかに社会によって深く方向づけられるかを考えるための恰好の素材が,数多く見つかるはずである。


技術と文明 ぎじゅつとぶんめい

技術とは人類が物質的環境を支配したり、理解を深めるために、道具や機械をつくるプロセスに対する一般的名称。英語では技術をテクノロジーともいうが、この言葉はギリシア語の芸術とか工芸を意味するテクネ(tekhn?)と、学問分野を意味するロジア(logia)からきている。また日本では、技術、科学技術と訳されている。したがってテクノロジーは、文字どおり物や製品をつくりだす研究、または科学を意味する。

→ 科学

多くの科学史の専門家は、技術は先進工業文明の必須条件であるというだけでなく、技術的変化の速度が、近世においては、文明の発展にいっそうのはずみをつけたと議論する。今日では、技術革新は、地理的限界や政治的システムと関係なく、幾何級数的に増加する速度であらわれているようにみえる。これらの革新は、伝統的文化システムを変革する傾向があるので、しばしば予想外に重大な社会的影響をひきおこすこともある。したがってテクノロジーは、創造的プロセスであると同時に、破壊的プロセスでもある、と考えることもできる。

 

科学と技術

科学と技術という言葉の意味は、時代とともに大きくかわってきた。しかしながら、この2つの言葉の間には、相違点より共通点のほうが多い。

科学と技術はいずれも、物質世界における因果関係にかかわり、そして、繰り返しによって証明できる実験的方法を採用している(→ 科学的方法)。

科学というものは、少なくとも理論的には、結果を実際に活用することにはあまり関心をもたず、一般法則を開発することにより深い関心をもっている。しかし、実際には、科学と技術は一体不可分にからみあっている。この2つが相互にかかわりあっているということは、化学者、エンジニア、物理学者、天文学者、大工、陶芸家など、多くの専門家の歴史的な発展をみればよくわかる。

ことなる教育的必要条件、社会的地位、専門用語、方法論、報酬のかたちなどが、制度的な目的や職業としての目標とあいまって、科学者と技術者の活動を区別するのに寄与しているが、歴史をみると、「純粋」科学の専門家が理論的な貢献だけでなく、多くの実用的な貢献もしている。

事実、科学は技術的革新のためのアイデアを提供するものだ。したがって、純粋な研究は、産業文明における技術の重要な発達に必須であるという観念は、本質的に一種の神話にすぎない。

産業文明の大きな変革の多くは、実験室でもたらされたものではない。力学、化学、天文学、冶金、および水力学などの分野における基本的な道具と製造工程は、それらの機能を支配する法則が発見される前に発達した。たとえば蒸気機関は、その作動の背後にある物理的原理について、熱力学という科学が説明をあたえる前に、世の中でひろく利用されるようになった。

近年、科学と技術のはっきりとした価値の区別がなされるようになってきた。科学の進歩には、往々にして、きびしい反対論があらわれる。今日では、多くの人々が科学よりも技術をおそれるようになった。これらの人々にとって、科学は、おだやかで客観的な自然の永遠の法則を理解するための源だが、現代社会におけるテクノロジーの勢いは、とても管理できないもののようにみえる。

 

古代および中世

技術は人間が長期間にわたって試行錯誤をくりかえし論理をつみかさねた結果、生まれてきたものである。このことは、初期のひじょうに単純な道具の時代から、現代生活まで大きな影響をあたえている、複雑で大規模なネットワークへ転換した進化の過程をかえりみれば、よく理解できる。説明を単純化するために、以下主として、西洋世界での発達に焦点をしぼるが、その他の文化からの大きな貢献も説明する。

 

初期の技術

知られているうちでもっとも初期の人類の遺産は、アフリカ、西アジア、およびヨーロッパで発見された火打ち石でつくられた手斧(ちょうな・ておの)である。それらは前25万年ごろにさかのぼり、石器時代の始まりを特定するのに役だっている。最初に道具をつくったのは、放浪してあるく狩猟民族のグループだった。彼らは、食物を切ったり着物や住居をつくるのに、鋭利な刃のある石をつかった。前10万年ごろになると、原始人の墓の中には、西洋ナシの形をした斧、スクレーパー、ナイフ、そのほかの石器がふくまれていた。このことは最初の手斧が、道具をつくるための道具になったことをしめしている。多くの動物たちによる道具の使用がみられるが、ほかの道具をつくりだすための道具をつくるこの能力は、人間をほかの動物と区別するものである。

技術の歴史における次の大きなステップは、火の利用である。火打ち石を黄鉄鉱に打ちつけて火花をだすことによって、人間は自由に火をおこすことができるようになった。それによって、自然からえた火をたやさないようにする必要性から、解放された。火は、照明と熱という明確な利点のほかに、土器をやいて耐熱容器をつくるのにもつかわれた。耐熱容器は穀物の料理や、醸造や発酵にもつかわれた。その後、その中で金属を精製することができる、坩堝(るつぼ)をつくることができるようになった。

初期の技術が、ただたんに実用的な道具だけに集中したわけではない。色のついた鉱物が顔料をつくるために粉末にされ、人間の身体や土器、かご、着物、そのほかさまざまな物につかわれた。顔料を探しもとめて、古代の人々は緑色のクジャク石や青い藍銅鉱を発見した。このような銅を含有する鉱石は、たたいても粉末にはならず、研磨することはできたが、削ることはできなかった。

銅鉱石はこのような性質をもっていたので、間もなくそのかけらが宝石とされた。古代の人々は、もし銅をくりかえしてハンマーでたたき火にいれると、割れたり、ひびがはいったりすることがなくなる、ということもおぼえた。焼なましとよばれる、金属の残留応力を除去するこの工程は、じつに、人類の文明を石器時代から脱出させたのである。とくに前3000年ごろに人々は、スズと銅をまぜあわせると青銅ができる、ということを発見した(→ 青銅器時代)。青銅は、銅よりももっと加工が容易になるだけでなく、剣や鎌などに必要なより鋭い刃をつくることができた。

銅は、チグリス・ユーフラテス川の源流であるシリアやトルコの山すそにも産出したが、古代におけるもっとも大きな銅の鉱床は、クレタ島で発見された。このきわめて価値のある資源に到達できる船の開発にともない、クレタ島のクノッソスは、青銅器時代でもっとも豊かな鉱山業の中心となった。

 

農業の勃興

青銅器時代にいたるまでに、すべての大陸に点在した人間社会は、さかとげのある槍(やり)、弓矢、動物油によるランプ、容器や着物をつくるための骨の針などを発達させてきた。さらに人類は、大きな文化的変革をなしとげた。すなわち、移動して生活する狩猟や遊牧社会から、一定の場所に定着した農業社会へと移行した。

農業共同体は、前1万年ごろの最後の氷河時代がおわったあとに、はじめて出現した。彼らの足跡は、東南アジアからメキシコまで、世界じゅうのいたる所で発見されるが、チグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミアの文明が有名である。この地帯の肥沃(ひよく)な土地は、やわらかくて耕作しやすく、植物がよくそだち、豊富な木が燃料につかえた。

前5000年までに、今日のシリア、トルコ、レバノン、イスラエル、ヨルダン、ギリシア、クレタ島およびサイプラス島で農業共同体が形成された。これらの地域の農業社会は、石の建物を建築し、穀物を収穫するのに鎌をつかい、原始的な犂を開発し、また、金属細工の技術を発達させた(→ 鉄器時代)。火打ち石の取引もはじまった。

前4000年までに、これらの地域を中心に農業は各地にひろまり、西は中央ヨーロッパのドナウ川に、南はナイル川をふくむアフリカの地中海沿岸に、東はインダス渓谷へとひろがっていった。

ナイル渓谷流域の開発が、そのほかの技術の発達をもたらした。この渓谷では、春先に川が氾濫するが、農作物の育成期に雨が不足するので、農作物に水を供給するために、灌漑や運河のシステムを開発する必要があった。

土地の所有権は、毎年一定の測量システムによって、きめなおさなければならなかった。土地の境界線の標識が、洪水によってしばしばながされてしまうからだ。

チグリス・ユーフラテス川流域には、別の技術的問題があった。ここでは、農作物の育成期の後に洪水がやってきたので、人々は堰堤(えんてい)や洪水防護壁の建設に精通しなければならなかった。

 

そのほかの初期の発展

成長する銅細工産業のために、効果的な鉱石の輸送手段として2輪馬車がつくられた。これまでに発見されたもっとも古い車輪は、前3500年ごろのメソポタミアにさかのぼる。

犂(すき)とともにつかわれた軛(くびき)は、家畜をつかった最初の運搬具だった(→ 畜産)。しかし使用頻度からいえば、アシ舟や木のいかだなどの水上運搬具のほうが多かっただろう。これらもまた、メソポタミアやエジプトなどの河川の沿岸で開発された(→ 船舶:造船)。

陶器、金属製品、および原材料の取引がおこなわれ、個々の創作者や所有者を確認するためのマークやシールがつくられるようになった。やわらかい粘土の上に、アシでつけられた楔(くさび)形のマークは、商取引を記録するためにメソポタミアで考案された。これらのいわゆる楔形文字による記述は、本当の意味で、保存するために書かれた最初の文書である。→ 印刷

人間の技術は、環境にも大きな変化をあたえた。たとえば水の管理である(→ 洪水調節:灌漑)。燃料用木材の需要がふえ、森林の伐採がすすんだ。また、ヒツジや牛が過度に放牧されて薄くなった土壌では新しい木がそだたなくなった。こうして、動物の家畜化、一毛作、森林伐採および定期的にやってくる洪水は、徐々に砂漠地帯を出現させるようになった。

 

都市化

前4000年ごろ、人類のもっとも複雑な創造物のひとつである都市が出現した。都市は、簡単な道具や農業の発達、冶金術などといった言葉では説明できないものだった。なぜなら、都市自体が技術だからだ。

都市の出現は、余剰の食物や豊かな物質的富を可能にしたので、このことが神聖な神殿や寺院、墳墓、砦(とりで)などの建設を可能とした。貴金属の蓄積、外敵からの攻撃をまもるための城壁を建築する権力の獲得、および軍隊や僧侶の管理などがあいまって、王は最初の都市工学技術者であったともいえる。

ジッグラト(古代バビロニアのピラミッド形寺院)や、ピラミッドは、最初の都市定住者たちの組織的権力と技術力の大きさを象徴している。エジプトのジェセル王(在位、前2737年~前2717年)のピラミッドは、前2725年ころ、イムヘテプによってサッカラに築造された。イムヘテプという名前で知られるこの最初の技術者は、知恵の神のひとりとしてあがめられた。

クフ王の大ピラミッドは、10万人以上の労働者を組織化し、1個が2~4tもある石のブロックを230万個も切りだした。このような巨大な建造物やモニュメントの建設、金属製品の取り引きの発達、および水資源の管理の発達は、計量の標準化をもたらした。

メソポタミアでは、キュービット(腕の長さを基準とした古代の尺度)が長さの基準となり、シケルが重さの単位となった。エジプトでは、1年間の季節のサイクルを月と日に分割した暦で、時間が計測された(→ 天文考古学)。

都市化は、記述の必要性もいっそう高めた。エジプト人は、パピルスから紙のような材料をつくり、その上にヒエログリフで文字を書き、これまでの重くて不細工な粘土板から解放された。

さらに都市は新しい分業体制をもたらした。すなわち、身分制度である。この仕組みは、地位を保護し、知的階級のためにレジャーなどをあたえた。当時の知的階級とは、文字を書ける人、医者、教師、技術者、魔法使い、聖職者などである。しかし、もっとも大きな資源をわりあてられたのは軍隊である。

 

軍隊の勃興

最初の都市は、事実上、戦争を遂行するための機構だった。都市は、防衛のために城壁の中につくられ、戦闘と征服のために組織化された。メソポタミアにあったウル、ニプール、ウルク、テーベ、ヘリオポリス、アスール、ニネベ、バビロンなどの都市の中心部は、破壊的武器の工場だった。軍事力の目的は、敵の都市を荒廃させることにあった。シュメールのウルは、最初に勃興した(およそ前4000年頃)大都市のひとつであるだけでなく、最初に破壊された(およそ前2000年頃)大都市のひとつでもある。同様に、はるか東方のインダス渓谷では、モヘンジョ・ダロという大都市が、前2500年ごろ建設され、前1700年ごろ、北方からきたチャリオット(戦闘馬車軍団)によって破壊された。これと同じパターンが、ペルーやエクアドルでも前1000年ごろにくりかえされ、後には、中央アメリカでもくりひろげられた。

古代における戦闘は、3つの段階で徐々に発達した(→ 陸軍)。第1段階では、革または銅のヘルメットをかぶり、弓、槍、楯、剣などを装備した歩兵隊があらわれた。チャリオットの発達がこのあとにつづいた。チャリオットは、最初のうちは、指揮官がのる簡単な戦闘用馬車だった。その後、車輪にスポークがつかわれて車体が軽量になり、馬には「くつわ」がつけられ、チャリオットは軽量な戦闘車となり、敵を包囲して蹴ちらすことができるようになった。第3段階は、騎兵の移動力とスピードをあげることに集中した。鉄の武器とすぐれた馬術の知識をもっていたアッシリア人は、前1200年~前604年の間、当時の地中海世界の大半を支配した。

前2世紀ごろ、アジアから「あぶみ」を導入するとともに、騎兵の剣による戦闘が主流となり、チャリオットによる戦闘は衰退した。

最初にエジプトやペルシアでみられた騎兵隊の奇襲は、主要な軍事力となった。騎兵隊の出現にともない、より敏速な運輸と通信システムの必要性がでてきた。ペルシア人は、インドのパンジャーブ地方から地中海にいたる、広大な帝国を支配するために、はじめて道路網と駅逓制度をもうけた。

 

ギリシアおよびローマ

ギリシアは、はじめて造船技術と貿易を通じて、また、地中海沿岸の国々を植民地化することによって大国となった。ギリシアがペルシアに勝利した原因のひとつは、海軍力だった(→ 海軍)。

ペルシア人とギリシア人たちは、新しい身分制度を分業にとりいれた。奴隷制度である。ギリシア文明は、その黄金時代をむかえるまでに、ほとんどすべての肉体労働を奴隷に依存していた。奴隷制度がある社会では、生産性の問題は、新しい生産方法や新しいエネルギー資源をさがしもとめるより、むしろ労働力を増加することによって解決した。このためギリシアでは、理論的な知識や学問が、肉体労働や製造とはっきりと分離されるようになった。

このことはギリシア人が、多くの新しい技術的アイデアを発展させなかったということではない。アルキメデス、アレキサンドリアのヘロン、テシビュース、プトレマイオスなどの人々は、サイフォン、滑車、てこ、カム、消防自動車、歯車、バルブ、タービンなどの原理について記述している。とくにギリシア人の実用的な発明としては、テシビュースの水時計、ヘロンのディプタ(測量器具)、アルキメデスのスクリュー・ポンプなどが重要である。またギリシアの航海術は、三角測量による航海法を導入したミレトスのターレス、最初の世界地図をつくったアナクシマンドロスなどによって改良された。しかしながら、ギリシア人の技術の発達は、彼らの理論的知識や広範囲な思索にはおよばなかった。

ギリシアを継承したローマ帝国も、この点はいくらか似ていた。しかしローマ人は、組織をつくり建設をするという点では、偉大な技術者だった。彼らは、人類史上最初の長期にわたる平和な時代を謳歌した、都市文明を構築したのだ。ローマ時代におこった工学上の大きな変化は、墳墓、寺院、防御施設などの建設から、大規模な公共工事の建設に移行するというかたちであらわれた。耐水セメントやアーチの原理をつかって、7万800kmにわたる道路網を建設した。多数の闘技場、公衆浴場、および数百の水道、排水路、橋なども建設した。1世紀ごろのローマの公共工事の技術者、セクタス・ジュリウス・フロンチヌスは、汚職と違法な慣行とたたかい、ローマの市民により快適で清潔な環境を提供した公共事業に大きな誇りをもっていた。

ローマ人は、水車による製粉工場の開発や、穀物の製粉、製材、大理石の切断などにつかわれた下射式または上射式水車の設計に功績があった。軍事面では、投げ槍(やり)や石弓のような武器を改良した(→ 大砲)。

 

中世

ローマ帝国の没落と産業革命の間の期間、つまり、500~1500年の間は、一般的なイメージとはことなり、けっして暗い、孤立した、またはおくれた時代ではなかった。事実、偉大な進歩は、ローマやギリシア時代よりも、中世のほうが大きかった。さらに、中世にさかえたビザンティン文化やイスラム文化は、自然哲学、芸術、文学、宗教などの分野で活発なうごきをしめしている。とくにイスラム文化は、ヨーロッパのルネサンスに、きわめて重要な多くの科学的貢献をなしとげた。しかしながら、中世のテクノロジーは、単純なカテゴリーには分類できない。というのは、それが折衷主義だったからだ。中世の社会は、きわめて順応性が高く、イスラムやビザンティンの文化だろうと、はるか遠い中国やバイキングの文化だろうと、どんなものからでも新しい発想や生産方式をどんどんとりいれていった。

 

戦争と農業

戦争の分野では、4世紀ごろ、槍(やり)と鞍(くら)の発明にともなって、騎兵の武器や武具が改良された。このことがあいまって、より大きな馬の育成、巨大な城砦(じょうさい)の建築へとつながっていった。石弓の導入と、すでに何世紀も前に中国で開発されていた火薬の導入は、溶鉱炉の発達にともなって、鉄砲、大砲、迫撃砲などの製造をもたらした。これによって、重い楯や巨大な石の防御壁の効果も半減してしまった。→ 火縄銃:カノン砲

また車のついた重い犂(すき)、水平な犂の刃、犂の撥土板などの発達は、中世における農業をいっそう生産性の高いものとした。三圃式農法の発展によって増加した余剰穀物は、政治的および社会的変化とあいまって、多くの農民は小規模な個人農場を放棄して、大規模な中世の共同体の農業形態を採用するようになった。

中世に発明された重要な機械の1つは、風車である。風車は、穀物の製粉量と木材の製材量を増加させただけでなく、複雑なクランクやカム、および歯車をつかって、別の装置をうごかす技術に習熟した大工を誕生させた。13~14世紀にインドから導入された糸車(→ 紡績)は、織物の生産工程を改良し、暖炉のまわりで一般的にみられる機械となった。暖炉自身も、燃料の木を節約するためにつくられた煙突がくわわったことによって形をかえた。農産物の余剰は、1000年までに貿易量を増加させ、都市を拡大させた。都市の中では、いろいろな建築の革新がすすみ、フライイング・バットレス(飛控え)によって、高い壁をもったゴシック様式の大聖堂の建設が可能になった。

 

運輸

中世における運輸の革新は、ひろい地域にテクノロジーをひろめることに革命的な影響をあたえた。荷車を効果的に馬にくくりつける馬具の横木、スプリングつき馬車などが輸送のスピードを高めた。海にも重要な変化がおきた。深底竜骨やはるかに操縦性のよい三角帆のラテン型帆船、および13世紀ごろ発明された磁気羅針盤などによって、帆船はこの時代でもっとも複雑な機械となった。これらの機械の効果的な使い方を航海士におしえるための学校が、ポルトガルのヘンリー王子によって設立された。ヘンリー王子の生徒たちは、コペルニクスの天文理論以上に、人間としての世界観を大きくかえた。

→ 航法:帆船:船舶と造船

 

そのほかのおもな発明

そのほかの中世の発明品である時計と印刷機は、人間生活のあらゆる面に大きな影響をおよぼした。1286年にウエイト・ドリブン・クロック(重力でうごく時計)が発明されたことによって、人間はもはや、日の出とともに1日を始め、季節の変化にともなって1年をすごす、といった生活をする必要がなくなったことを意味した。時計は航海にも絶大な助けとなった。時間の正確な測定は、現代科学の発展に不可欠の条件だったのである。

いっぽう、印刷機械の発明は社会の改革を促進したが、それはいまだに継続している(中国人は、2世紀以上前に、紙と印刷術の両方を開発していたが、これらが西洋諸国に一般的に知られるようになったのは、ずっと後になってからだった)。1450年ごろ、ドイツの印刷技術のパイオニア、グーテンベルクは、組み替えできる活字を鋳造した。いったん開発されると、印刷術は急速にひろまり、より広範囲な読者のために手で印刷した本にかわりはじめた。こうして、知的生活はもはや教会や宮廷の独占物ではなくなり、一般市民にとっても読み書きの能力は、都市で生活するために必要不可欠なものとなった。→ 印刷

 

現代のテクノロジー

中世の終わりまでに、都市とよばれるシステムは、西洋人の生活の中心となってきた。1600年には、ロンドンとアムステルダムは、それぞれ10万人以上の人口をもっていた。パリにはその2倍の人々がすんでいた。また、オランダ人、イギリス人、スペイン人、フランス人たちは、世界帝国の展開をしはじめた。植民地主義と貿易は、強力な商人階級をうみだしたが、かれらはワイン、コーヒー、紅茶、ココア、たばこなどの贅沢品に対する欲望をかきたてた。これらの商人たちは、蔵書をあつめ、高価な繊維や革でできた着物を着たが、このライフスタイルは一般の人々にうらやましがられた。18世紀の初めのころまでにイギリスでは、資金源と銀行システムがじゅうぶんに確立したので、大量生産技術に資金を投入することが可能となり、中産階級のあこがれていたものをいくらか満足させることができるようになった。

 

産業革命

産業革命はイギリスではじまった。これはイギリスがテクノロジーや政府の奨励、および広範囲で多様な交易網をもっていたためである。最初の工場は1740年に出現したが、おもに繊維の生産に集中した(→ 工場制度)。また、このころからイギリス人の大部分は羊毛の衣服を着ていたが、その後100年以内に、綿製品にとってかわられた。とくに、93年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したあとは、この傾向はいっそう強くなった。

ジョン・ケイが発明した飛杼(ひ)をつかった織機やカードシステムの機械、リチャード・アークライトの水力紡績機、ジェイムズ・ハーグリーブスの紡績機のような織機の発明と、サムエル・クロンプトンの織物のおり方の改良が相互に影響して、新しい動力源である蒸気機関と合体していった。蒸気機関は、イギリスではトーマス・ニューコメン、ジェイムズ・ワット、リチャード・トレビシックなどによって、アメリカではオリバー・エバンスによって開発された。1790年代~1830年代の35年の間に、933万本の紡錘のついた10万台以上の力織機が、イングランドとスコットランドで稼働した。

織物の工程でもっとも重要な革新のひとつは、1801年にジョセフ・ジャカルによって導入された織機である。彼の織機は、たて糸の中によこ糸をどのようにおいていくかを決定するために、パンチで穴を開けたカードを使用した。このパンチカードの使用にヒントをえて、イギリスの数学者、チャールズ・バベッジは、これと同じ原理の計算機(解析機関)を設計しようとした(→ 階差機関)。彼の機械は完全には実用化されなかったが、20世紀にやってきた偉大なコンピューター革命の先駆となった(→ コンピューター)。

 

新しい労働形態

産業革命は近代的な工場を生みだしたが、その一方でテクノロジーの進歩は、そこではたらく人々がもっていた経験や知識を不要なものにした。このため工場は、個人の経験や知識に関係のない、賃金システムを導入した。そのような産業の発達にともなう経済システムによって、工場で労働する人々は、たえず失業の脅威にさらされた。

工場システムは、イギリスのギルドや職人たちからの強い抵抗をのりこえて、やっと確立された。彼らには、新しい工場システムが、彼らの収入と生活に脅威となることがはっきりとわかっていた。たとえば、マスケット銃の生産において、鉄砲工は、交換可能な部品の導入やライフル銃の大量生産に抵抗した。しかしながら、テクノロジーの進歩とともに誕生した工場システムは、現代の基本的なシステムとなり、そこではたらく老若男女の仕事は、生産工程のひとつにすぎなくなった。

 

ますます加速する革新

テクノロジーの革新によって、次のような工学的成果が生まれてきた。すなわち、最初の大西洋電信ケーブルの敷設、スエズ運河とパナマ運河の建設、エッフェル塔やブルックリン橋の建設、および巨大な鋼鉄の客船、グレート・イースタン号の建造などである。電信と鉄道がほとんどの主要都市を相互に結びつけた。19世紀の終わりごろには、アメリカの発明家トーマス・エジソンの電球がろうそくやランプにとってかわった。そして30年たらずの間に、すべての工業国が電灯などの需要のために、発電をするようになった(→ 電気照明)。

電話、蓄音機、ラジオ、映画、自動車、および航空機といった19~20世紀にかけての発明は、テクノロジーを世界じゅうのあらゆる面に拡大していくのに役だった。自動車の組み立てラインによる大量生産や家庭用品の発達、ますます高層化する摩天楼の建設などにともなって、技術革新をうけいれるということは、生活そのものとなった。迅速な通信、マスメディアからの利用可能な情報の洪水などによって、社会は急速な変革をとげつつあった(→ レコーディング)。

 

技術教育

アメリカが20世紀におけるテクノロジーのリーダーとなった理由のひとつは、先進的な教育システムを発達させたことである。18世紀にフィラデルフィアではじめて開校された工業学校は、19世紀末までに、アメリカの主要な都市すべてにひろがった。20世紀になると、州立の職業訓練施設が基本的な技能の訓練を提供するようになった。1862~90年の間に、モリル・ランド奨学金として知られる連邦奨学制度によって、すべての州に工業および農業大学が設立された(→ 職業教育)。さらに、1920年の初めから、国内のすべての郡は、新しいテクノロジーに関する情報を農民の間に普及させるため、連邦普及サービスオフィスをもつようになった。

 

テクノロジーの再評価

第1次世界大戦と大恐慌によって、テクノロジーの猛烈な発展は、批判的に再評価されるようになった。潜水艦、機関銃、戦艦、および化学兵器などの発達は、テクノロジーの破壊的側面をますますはっきりとさせた。さらに1930年代に、資本主義によってもたらされた大量失業と、それによる悲惨さは、テクノロジーの進歩によってもたらされた結果を、いっそう強く意識させるきっかけとなった。

そして、第2次世界大戦とともに、それ以来地球上の生命にとってあまねく脅威となった武器、つまり、原子爆弾の開発がなされた。各国の指導者たちは、しばしば、核エネルギーの平和的利用を口にするが、その危険性に言及せずに、原子力の有効利用を議論することはできない。もうひとつの第2次世界大戦の副産物であるコンピューターとトランジスターの開発、およびそれにともなう小型化の傾向は、同様に、社会に対して大きな影響をあたえつつある(→ マイクロプロセッサー)。それが提供する可能性ははかり知れないものがあるが、同時に、プライバシーの侵害やOA化されたシステムによる失業の増加などの可能性もある(→ オートメーション)。

1950年代に、一部の評論家たちは、多くの技術の生産物には危険な、または破壊的な側面もあると警告しはじめていた。自動車の排気ガスは大気を汚染し、DDTのような殺虫剤は食物に危険をもたらし、広範囲な産業廃棄物は地下水の大きな水源を汚染している、と彼らは指摘した。事実、物理的な環境においては、発生する廃棄物の処理場をさがすことが、現代社会の主要な課題となっている。→ 環境汚染

 

代替案

この現代のジレンマに対する、いくつかの代替案が示唆されてきた。アメリカで正式に制度化されている考え方は、技術アセスメントである。議会の技術アセスメント委員会が1970年代に設立され、プロジェクトおよび機器の社会、経済、環境、および健康にあたえる影響を評価する責任をもっている。しかしながら、新しいテクノロジーの2次的影響を予測することは、実際上、むずかしい。

総合的な計画や技術アセスメントをあまり信頼していない多くの人々は、産業国家のテクノロジーに関する問題の代替案として、また、先進テクノロジーを後進国に移転することによっておこる社会的問題に対する解決策として、いわゆる適切な、または中間的なテクノロジーの概念を発展させてきた。

ドイツ生まれのイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハは、著書「スモール・イズ・ビューティフル」(1973年)の中で、人間的、審美的、道徳的、政治的観点から、「現代のテクノロジーの圧倒的性質は、人生の意義、選択の自由、正義を実現し個人の創造性を発揮する平等な機会といった、生活の質的側面に脅威をあたえるものである」という考え方をしめしている。この見方を支持する人々は、すべての人間は地球の資源には限界があり、産業の成長、都市の大きさ、エネルギーの使用などが規制されたうえに、人間生活が構築されなければならないということを認識する価値体系を提案した。天然資源の回復と再生が適切な目的となった。

もうひとつの意見である技術決定論者たちは、現代社会はもはや19世紀や20世紀初頭の産業時代にすんでいるわけではないと主張する。彼らの主張は、産業時代後の社会はすでに現実化しており、発達したエレクトロニクスによって媒介された複雑なネットワークは、国家主義的制度、資本主義的会社制度、人口過密な都市などを古いものにしてしまったというものである。

 

展望

20世紀のテクノロジーは、ヨーロッパとアメリカから、日本やソ連のようなほかの主要国にひろがっていった。しかしながらテクノロジーが、世界の国々のすべてに浸透したとは到底いいがたい。いわゆる開発途上国とよばれる国々には、いまだに工場システムやそのほかの産業制度を経験したことがないところもいくつかある。そのような国々の指導者たちは、近代兵器や新しいテクノロジーを獲得することが、彼らに権力と威信をあたえるだろうと感じる傾向がある。

しかしながら、これらの国々に対する技術移転が、どのような宗教的、社会的、文化的結果をもたらすのか、だれにも予想することはできない。事実、最近の数十年の間に、技術移転によって急激な変革がおきた地域で、もっともきびしい社会的問題のいくつかがおきている。これまでテクノロジーは、つねに新しい物理的および人間的環境をつくりだすための主要な手段であった。今日では、テクノロジーが、人間がこれまできずいてきた世界的文明を破壊するかもしれない、という疑問をもたざるをえない。

 

技術史

技術は他の分野と違ってその進歩が明確で蓄積的なので,技術の歴史に対する関心は早くからあったように思われるが,必ずしもそうではない。他の分野と同じく最初の技術史は事物の起源を問う神話的なものであった。すなわち,ギリシア神話はプロメテウスが人間に火を与えたとし,周易の〈昔辞伝〉下は包犠氏が狩猟・漁労用の網を作り,神農氏が耕作具を作ったと説き,舟や車や弓矢・住居・文字等についてその起源を考察している。またエジプトではトートが文字や諸技術の創始者とされた。人間に技術を教えたとされるこれらの伝説的人物が,神と人の中間的存在であることは重要で,技術は神が与えたものというより人間特有のものであり,しかもその担い手は人間以上の存在と考えられていたのであった。これらの起源譚は神話であって〈歴史〉とはいいがたく,最初の歴史らしいものは,優れた技術者の伝記であった。古くはヘロドトス(《歴史》)やプルタルコス(《英雄伝》)や司馬遷(《史記》)や《今昔物語集》などで扱われた仕方である。そこではエウパリノスEupalinos(前6世紀のギリシアの技術者)やアルキメデスや李冰(りひよう)や飛舞工(ひだのたくみ)などがあげられている。このような扱い方が支配的だった時代に,ウィトルウィウスの《建築十書》や大プリニウスの《博物誌》や中国の〈考工記〉が,メカニズムや材料を中心とした技術の扱いを示していることは注目に値する。

 中世では伝統が重んじられていたので,新機軸よりも信頼性や洗練度が重視され,技術は芸術に近いものになった。したがって技術史も,美的評価にもとづく優れた建築家や工芸家の伝記や,様式の変遷史が中心であった。しかし広い版図を支配したイスラム圏では伝統の異なる珍しいものが関心をひき,とくに地歴書(たとえば,マスウーディーの《黄金の牧場と宝石の山》)には各地の技術の様式や特色が記載されている。

 近世に入ると技術は急速に発達したので,新技術への注目や技術史への関心が芽生えた。最も早く近世に入った中国では,沈括(しんかつ)が《夢渓筆談》で活字印刷術や磁針その他について多数記述し,曾公亮の《武経総要》は磁針や火薬をはじめとする多数の技術記録を残した。西欧では,ビラール・ド・オヌクールがその《画帖》に当時の技術を記録しているが,とくに15~16世紀に新技術を記載した書物が多数出現し,F. ベーコンはこれらの技術誌を学問の中に位置づける新しい学問分類を提案した。ベーコンの重要な点は,他の学問と違って〈機械的技術においては,最初の考案はごくわずかなことしかなしとげず,時がこれにつけたして完成する〉として,技術の進歩が蓄積的で改良・洗練されていくものであることに注目したことと,〈技術史(誌)の効用はすべての歴史(誌)のうちで自然哲学のために最も根本的で基本的なものである〉として技術史(誌)の研究を提唱した(1605)ことである。これを受けた技術誌は18世紀フランスの《百科全書》で実現された。〈学問・技芸・工芸の(des sciences,des arts et desmレtiers)合理的事典〉という副題はその内容をよく示している。しかし,これより100年以上前に中国では宋応星が《天工開物》という詳細な技術誌を著していたことは注目されよう。

 ヨーロッパで最初の技術史の書物は J. ベックマンの《発明史》(1780‐1805,邦題《西洋事物起原》)で,個別的に古代からの文献を広く渉猟してまとめた事典である。項目数は多くはないが,歴史的配慮が行き届いており,各国語に訳されてその後の技術史研究の出発点となった。19世紀にはとくにドイツで研究が進み,1899年にはベックTheodor Beck(1839‐1917)が《機械技術史》を書いて一つの典型を示した。これはアレクサンドリアのヘロンから始めて,ウィトルウィウス,大カトーなどの古代の書物,ビリングッチョ,G. アグリコラ,G. カルダーノ,ベッソン Jacques Besson,ラメリ Agostino Ramelli,レオナルド・ダ・ビンチその他の15~16世紀の技術書を近代的な図版を入れて紹介しつつ,ワットの蒸気機関に至るもので,それまでの発明物語にとどまらない専門的な技術史の書物であった。19世紀には近代考古学が成立し,とくにミュラー Karl Otfried M‰ller(1797‐1840)の《美術考古学教本》(1830)が技術史を含む新しい視点を示して研究法が確立しただけでなく,先史時代の考古学が始まって発掘による技術史料が豊富になった。C. J. トムセン以来,先史時代の時代区分が技術史にもとづいて行われるようになったし,化学分析の技術や炭素の放射性同位元素14C による絶対年代測定技術も進んで,先史時代技術史は考古学と結びついている。

 他方,19世紀における経済学や社会学の成立は,技術と社会の関係についての研究を促し,20世紀には経済史家によるいくつかの優れた技術史研究を生んだほか,産業革命史の一環としての技術史,経営史の一環としての技術史,科学史の背景としての技術史など,多面的な研究が進んだ。第1次大戦後はヨーロッパ文明の危機の意識が高まり,マンフォードら文明史家による技術史研究やマルクス主義者による社会発展の基礎(生産力)としての技術史研究も行われた。20世紀後半の特徴としては,科学と技術との関係,技術移転(テクノロジー・トランスファー),技術思想,テクノクラシー,テクノロジー・アセスメント,技術と女性,技術と文学,技術と国家,技術と軍事,技術と環境など多くの問題が技術史の主題となり,コンピューターにみられるように開発目標設定のための技術史研究も行われるようになったことである。さらに,産業遺跡や産業遺物の保存事業が進み,産業考古学という新しい分野も生まれた。

 日本の技術については,江戸時代には工芸品鑑定のための様式史や名工史が主であったが,明治以後,黒川真頼(まより)の技術史関係文献によるまとめ(《工芸志料》1878)をはじめとして,経済史家(横井時冬など),人類学者(西村真次など),考古学者(小林行雄など)による研究のほか,三枝博音が技術思想を含めて伝統技術,欧米技術の受容など広く歴史的に取り扱って日本技術史研究を定着させた。日本では従来,技術史料は廃棄される傾向が強かったが,最近は各地に民俗資料館や企業博物館が相ついで誕生して,産業技術資料が保存されるようになり,また工学系の各学会も,技術史に強い関心をもって積極的に取り組むようになってきている。⇒技術 坂本 賢三 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

 

科学的方法 かがくてきほうほう Scientific Method 科学における研究や実験をする際の諸原理とその哲学的な土台。哲学はさまざまな出来事について「なぜ」と「どのように」を問う学問であるが、科学は、「どのように」しか探究しない。しかしその探究はこまかく厳密におこなわれる。近代科学は、通常ルネサンスからはじまるといわれているが、なにかを知ろうとする科学的探究のきざしは、人類の歴史をとおしてつねにみられる。

 

その手法

科学的方法においては、すべての先入見をすてて対象をあるがままに観察しようとする客観的態度と、同じ観察や実験をくりかえすことが可能かどうかが重視される。また科学的方法には、個々の観察や実験から一般的な仮説や理論にいたる帰納と、一般的な理論から出発して個別的な事例にいたる演繹という2つの推論のしかたがある。

17世紀前半、フランシス・ベーコンが自然観察をじゅうぶんな回数おこなえば理論へいたるという帰納法をとなえたのに対して、デカルトは、はっきりしていてうたがうことのできない観念をもとに観察された現象を説明する演繹的方法をとなえた。この2つの方法をつかって科学は、万有引力の法則のような自然界についてのさまざまな法則を発見していく。

 

現代の科学的方法

今日の自然科学では、仮説をたて、その仮説を実験や観察によって検討していくという考え方がとられている。実験が仮説どおりにいけば仮説をうけいれ、仮説に反すればほかの仮説をたてるという方法である。このようにまず仮説を発想することを、パースはアブダクション(仮説発想)とよんだ。ポッパーは帰納を否定し、科学とほかの学問との違いを「反証可能性」という概念にもとめた。ポッパーは、科学理論というのは、その理論とはちがう観察命題によって否定される可能性があるという点に本質があると考えたのである。さらにクーンのパラダイム論やラカトシュによる研究プログラム論など、科学のいとなみについてはさまざまな考え方がある。

 

芸術

独自の価値を創造しようとする人間固有の活動の一つを総称する語。このような意の日本語としては明治20年前後に翻訳語として始まり,今日では完全に定着したが,この語にあたる西欧語はアート,アール art(英語,フランス語),クンスト Kunst(ドイツ語),アルテ arte(イタリア語,スペイン語),さかのぼってはアルス ars(ラテン語),テクネーtechn^(ギリシア語)である。それゆえ芸術の意味を考えるには,芸の正字〈芸〉や〈術〉の語義を中国および日本の文化史に追いもとめる以上に,西洋における芸術観の展開を重んじることになる。

 Kunst は技術的能力にかかわる動詞 kÅnnen(できる)に発し,art や arte の由来せる ars はtechn^ の訳語として用いられた。techn^ は近代語テクニック technique などの語源であり,〈制作〉とか〈技術〉を意味する。すなわち言葉からみれば芸術は技術と類縁であり,最広義では技術にふくまれる。ところですでにギリシア人は知の性格を技術に認め,これを経験と学問の中間に位置づけていた。学問は真理の認識そのものを目的とし,原理の探究から普遍的な知の体系構築へすすむことを使命とする。他方,技術は明確な作物の制作を目的とし,この点でたんなる経験を超えるが,つねに個物にしばられる点で学問から隔たる。理論の普遍的な知を個々の具体的な事例に適用しつつ,あくまで特殊の認識に生きるのが技術の使命であり,これは芸術にも当てはまる。

 ラテン語の ars はこの知としての性格を強め,しばしば〈学問〉と訳す方がよいほどである。7種の〈自由学科 artes liberales〉(自由七科)が自由人の修めるべきこととされたが,その内容をみればars の学的性格は明らかであろう(7種はのちに〈三学科=トリウィウム trivium〉:文法・論理・修辞と〈四学科=クアドリウィウム quadrivium〉:算術・幾何・天文・音楽に区分される)。なおこの点では歴史的にさらに古く中国(周代)でも士以上の必修科目として六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数の技芸)の定められていたことは興味深い。

 さて建築をはじめ自由学科に数えられなかった職人的技術の地位を高めたのはルネサンスの巨匠たちであり,その後,諸芸術の躍動につれて18世紀には芸術を統一的にとらえる企ても生じ,やがて美・芸術の原理学たる美学の成立をみるまでになった。この過程で近代の努力が確認したのは〈美的価値の実現〉こそ芸術を他の技術から区別する核心ということであり,この見方は万人の賛同をえて芸術は〈美しい技術〉(ファイン・アーツfine arts,ボーザール beaux‐arts,シェーネ・キュンステ schÅne K‰nste)と呼ばれ,ついに19世紀以降今日では形容詞 fine などを省く名詞だけで芸術を意味するにいたり,この用法を先人は日本にも導入したのであった。

[美と芸術] 美しいものは目に見え,耳に聞こえ,心に訴えてくる。このようにだれしもそなえている感性のとらえる精神的価値が広義の美であり,美的価値である。そして美は珠玉などの個物に,広大深遠な景物に,あるいは艶麗な人体に,また人間関係のかもす種々の感動として,いたるところに遍在する。だが日常における美のあり方ははかなく,たちまち消えゆくのがつねである。ここに芸術が美をとどめおくことばかりか,ひいては美を新たに創造することをも使命として登場する。したがって創作の機構に芸術の特質は最も明らかとなるが,古来の創作論を大別すれば模倣説,表出説,形成説の三つが挙げられる。

(1)模倣(再現)説。創作の本質を模倣とみる見解が最も歴史の古い芸術観であろう。模倣は創造と反対の真似(まね)を思わせやすいが,ここでは事物の再現という積極的な意味で考えられている。美しいものごとの感覚的外形を模倣して作中におさめ,その美を永くとどめようとするのだが,それだけでない。芸術家の目は鋭く,外形の背後に事物の本質を見抜いて,これを教示してくれる。このような本質の模倣にまでいたれば,芸術はただ感覚と戯れるばかりでなく,〈知る〉という人間の根源的な営みにかかわることになろう。ただし芸術には多様な種類があり,模倣芸術と呼ばれるなかでも,絵画・彫刻などの造形美術と詩・小説などの文芸では模倣のしくみも異なり,演劇ではいよいよ複雑になる。なお,アリストテレスの《詩学》は直接にはギリシア悲劇を扱っているが,模倣についての洞察が深い古典であり,後世への影響は文字どおり最大,いまなお傾聴すべき芸術論である。

(2)表出説。だが芸術は模倣芸術に尽きない。音楽や建築を模倣で語りきることはできない。この事情をふまえて,ことに近代に力説されるようになったのが表出説であり,個人の感情や気分の表出こそ芸術全般にゆきわたる創作の本質とみる見解である。西洋ではルネサンス以来各方面で,個性ゆたかな芸術家がそれぞれ独自の表現を開拓してきたが,その歴史的動向を思えば表出説の強調も当然であった。だがこの主張も実質は決して新しくない。中国や日本における書の敬重や水墨画の評価には,一点一画にたんなる技巧以上の人格の影をみとめ,表出された精神性の深みを重んじる態度がうかがえる。さらにさかのぼれば,有史以前の洞窟壁画や土偶や文様などには,何か姿も見えぬ畏怖の対象に対する共同体全体の祈願というべき感情がこめられていて,そのあまりの強烈さに人々は,作品にたたえられている呪術性をつねづね語ってきたものである。

(3)形成説。表出とさきの模倣とは正反対にみえる。だが視線が人間の外に向かうか,それとも心の内かの違いはあっても,表すべきものがあらかじめ前提されることでは共通の構造を示すはたらきであり,それゆえ表出も模倣もともに表現という一語にまとめられてふしぎでない。しかし芸術創作はたんなる表現でなく,表現にさいして新たに独自の形式をつくりだす営みでなければならないとして,この契機を重視するのが形成説である。

 ところで作品の形成には素材が必要で,これには2種類ある。一つは何を表現するかという〈題材(主題)〉である。もう一つは素材は何を用いて表現するかという〈媒材〉である。いかなる分野でも媒材を思いのまま扱えるようになるまでに,芸術家は厳しい修練を経てこなければなるまい。そのすえにはじめて自然界にみられぬ新たな美を創造することも可能になろうが,これが日常の生活ではたやすく成就できることでない理由も,同じところにある。なお,新しい媒材は続出するし,これに応じて新芸術も登場することになる。印刷,写真,映画,ラジオ,テレビ,コンピューターなど近代工業の成果とむすぶ諸芸術の活動はそれぞれ目覚ましい。だが媒材の新しさがそのまま美的価値の新たな創造とはいえないことに用心すべきである。

 さてわれわれとしては上記3説を総合し,作家による〈体験の表現(模倣・表出)の形成〉が芸術作品の基本構造とみておけば,個々の具体例にもほぼ誤りなく対処できよう。

[芸術の分類] 芸術作品は無数無限につくりだされる。それだけに統一的な説明をもとめて,古来諸芸術の体系的な分類もくり返されてきた。感覚を分類原理として〈視覚芸術〉と〈聴覚芸術〉に分けたり,類型学の立場から〈自由芸術〉と〈応用芸術〉,〈空間芸術〉と〈時間芸術〉,〈事物的芸術〉と〈非事物的芸術〉に分けるなどである。だが数々の理由から当然とはいえ,決定的な分類が立って芸術理解を指導するわけではない。具体的な個々の作品理解においてはむしろ様式とジャンルの両概念がたいせつである。作品には,つくる主体のがわからみれば,作家の個人的特質から背後の時代とか風土の特性など,さまざまな主観的条件が刻みこまれる。逆に客体となる条件のがわからみれば,媒材,題材,表現方式の3契機が歴然と作品の存立を支えている。このような作品に即して,様式とは一作品がそなえている主観的な個性的相貌の類型的性格を語る概念であり,ジャンルとは客観的に類型的統一をかたちづくる作品群を呼ぶ概念である。いずれも類型概念として群のなかの個物を際だたせるに有効である。例えば様式やジャンルが明確ということは,当該作品を相似た作品群の中心部に据えて,その普遍性を保証してくれる。反面その位置に安住すれば多数の人々には理解しやすくなっても,今度は芸術の特異な冒険性を裏切りかねない。現代芸術が様式を否定しジャンルの固定化をいとう傾向や,複製芸術がはらむ問題などは,この観点からも扱うことができよう。

[芸術と社会] 芸術作品を前にして感動を覚えるとき,その悲しみや喜びは個人的利害にはつながらず,人間たることを確認しての共感である。日常生活は利害や関心の刺激がたえず,これほどに心を深める機会を見いだしがたい。芸術家の生涯に苦闘の跡は多く,芸術史全体を見渡しても,平穏無事の時期よりも不安激動の時代にこそ偉大な作品は創造されてきたと思われる。芸術は時代の記録としても貴重である。過去の世相を思いえがくことができるのも,当代芸術作品の明確な形式に,多様な現象の外形が写しとられ,同時にその時代に生きた人々の心のさまが表されているからである。それゆえ芸術のもつ教育的機能を見落とすことはできない。芸術家は美の創造を使命とするからには,冒険家として人生の全領域をくまなく探査し,新たな発見を明確な形式におさめて提供する。その確実な情報を無視できるものでない。だが他方で,社会には旧来の秩序を維持しようとする傾向がある。そのために芸術の冒険と社会とのあいだに緊張や対立が生じ,検閲や統制の問題を招くこともあるが,これがまた刺激となって芸術の新たな躍動をうながすのである。

 芸術が時代の特質をすばやく察知するのは,芸術の本質が美の創造にあり,美とは感性にふれる精神的価値だからである。感性は生命を支える根源にほかならず,諸他の動物と同様人間がいきいきと活動できるのは感性につき動かされてのことである。だが動物は意味を知らず価値を自覚しない。この地上では人間だけがものごとの意味を問う存在であり,また人間を導く価値として真や善や聖,そして美を希求してきた。意味や価値をめぐるさまざまな文化的営為のなかで,感性的存在としてひとり立つ人間をまさに人間たらしめる,繊細微妙な心をはぐくむのが芸術にほかならないだろう。⇒技術∥美術


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