Back TopPage    

「複製技術の時代における芸術作品」

ヴァルター・ベンヤミン/岩波文庫「ボードレール」より

(相原健二要約)

---
芸術作品は、原則的にはいつも複製可能だった。人間が作り出したものは、いつでも人間によって模倣されることができた。そのような模作は、弟子たちによっては技法に習熟するために、名匠たちによっては作品を普及させるために、さらに第三者たちによっては利益をむさぼるために、なされることもあった。この種の模作に比べると、芸術作品の技術的複製は新しい。
---

---
写真は映像の複製過程において、芸術家としての重要きわまる責務から、初めて手を解放した。そしてその責務は、もっぱら目が引き受けることとなった。手がえがくよりも素早く目は物を捉えるから、映像の複製過程いちじるしく速くなり、発語とも歩調を合わせることが可能になる。(中略)写真はトーキーの可能性を秘めていたわけだ。
---

---
最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこには<ひとつ>だけ脱け落ちているものがある。芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。
(中略)
オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。
(中略)
しかし、偽造品という烙印が押されるのが通例の手製の複製に対しては、真正のものはその権威を完全に保持するとはいえ、技術による複製にたいしては、そうは問屋が卸さない。その理由は二つある。

技術による複製はオリジナルにたいして、手製の複製よりも明らかに自立性をもっている。たとえば写真による複製は、位置を変えて視点を自由に選択できるレンズにだけは映っても人間の目には映らない眺めを、オリジナルから抽出して強調することができる。あるいはまた、引き伸ばしや高速度撮影の特殊な手法の助けを借りて、普通の目では絶対に捉えられない映像を、定着することもできる。

オリジナルの模像を、オリジナル自体にかんしては想像も及ばぬ場所へ、運びこむことができる。何よりもそれは、写真のかたちでであれディスクのかたちでであれ、オリジナルを受け手に近づけることができる。
---

---
複製技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである、(中略)複製技術は複製されたものを、伝統の領域から切り離してしまうのである。複製を大量生産することによってこの技術は、作品の一回限りの出現の代わりに、大量の出現をもたらす。そして受け手がそのつどの状況の中で作品に近づくことを可能にすることによって、複製された作品にアクチュアリティーを付与する。

いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。
(中略)
現代の大衆は、事物を自分に「近づける」ことをきわめて情熱的な関心事としているとともに、あらゆる事象の一回性を克服しようとする傾向をもっている。対象をすぐ身近に、映像のかたちで、むしろ模像・複製のかたちで、捉えようとする欲求は、日ごとに否みがたく強くなっている。(中略)一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同時に絡まり合っている。
---

---
芸術作品のアウラ的な在りかたが、このようにその儀式的機能と切っても切れないものであることは、決定的に重要な意味をもっている。いいかえると、「真正の」芸術作品の独自の価値は、つねに儀式のうちにその基礎を置いている。
(中略)
すなわち、芸術作品の技術的な複製が可能になったことが、世界史上で初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる、という認識だ。(中略)芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は相対的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は別の実践を、つまり政治を、根拠とするようになる。
---

---
芸術作品の複製技術の手法が多種多様になるとともに、作品の展示可能性が大きく増大してゆくと、作品の礼拝的価値と展示的価値という両極のあいだの量的な移行が、始原時代においても生じたように、作品の性質の質的な変化に転換する。
(中略)
映画においてもっとも進んだかたちで出現している芸術のこの機能変化の、歴史的な射程の大きさが、それを芸術の始原時代と対決させてみることを、方法的にのみならず実質的にも、可能にしていることである。
(中略)
第一の[太古の]技術がやたらと人間を投入するのにたいして、第二の[現代の]技術はできるだけ人間を投入することを少なくする、という点にある。(中略)第一の技術にとっては一回性が肝要であるが、これに反して第二の技術にとっては、一回性は少しも肝要ではない。第二の技術の根源は、人間が初めて、そして無意識の智慧を働かせて、自然から距離をとりはじめたところに、もとめられよう。いいかえれば、その根源は遊戯にある。
(中略)
こんにちの芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することなのだ。このことは、とりわけ映画についていえる。映画は、人間生活においてほとんど一日ごとにその役わりが増大してきている機構との、密接なかかわりによって条件づけられた知覚・判断能力を、また反射能力を、ひとが練習することに役立っている。
---

---
映画の出現と同時に芸術作品にとって決定的に重要なものとなったひとつの性質は、ギリシア人からすれば、芸術作品にもっとも認めがたいもの、あるいはそうでなくても、芸術作品のもっとも本質的でない性質と見えたであろうもの、なのである。その性質とは、作品を、より良く作り変えていくことを可能とする性質にほかならない。(中略)映画はじつに多くの映像や場面からモンタージュされるものであって、モンタージュするひとは、その映像や場面の選択権を握っている。(中略)映画はそれゆえ、芸術作品のうちでも、より良く作り変える可能性に、もっとも富んでいる。そしてこの改良可能性は、永遠の価値なるものを徹底的に断念することと、繋がっている。
---

---
人間は初めて、かれの生きた全人格をもってではあるにせよ、しかし人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った、と。これこそ映画の働きである。(中略)スタジオでの撮影の特異性は公衆の代わりに機械装置を置くところにある。だから俳優を包むアウラは、ここでは欠落せざるをえない──したがって同時に、かれの演ずる作中人物を包むアウラもまた。
(中略)
舞台上で行動する俳優は、役に没入している。しかし映画俳優はじつにしばしば、そうすることができない。かれの演技は一貫して続けられることがまったくなくて、多くの短い演技の切れはしから構成される。
---

---
画家は仕事をするとき、対象との自然な距離に注意を払う。これに反して撮影技師は、事象の織り成す構造の奥深くまで分け入ってゆく。両者が取りだしてくる映像は、いちじるしく異なっている。画家による映像が総体的だとすれば、撮影技師による映像はばらばらであって、その諸部分は新しい法則に従って寄せ集められ、ひとつの構成体となる。だからこそ映画による現実の描写は、現代人にとって、比類なく重要なのである。
---