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「第三の皮膚」論

1995.12.22 幸村真佐男

第一の皮膚  内と外との境界

  皮膚は物質代謝系における生物個体の内と外との境界である。トポロジカル(位相数学的)に記述すれば人間は管構造をしている。東北の海岸には‘ホヤ’とよび、《海鞘》と漢字で書かれ“海のパイナップル”とも呼ばれ酒飲みには堪えられない不思議な袋状の海産動物がいる。この海鞘が脊椎動物の祖先形であり、一端は岩にへばりつき他端には二つの孔があり一方の孔は体内に海水を取り込み他方の孔は体内から吐き出す。それが管構造の原形であるし、またまさに袋としての生命体そのものである。
 バックミンスターフラーは立花隆との対談で宇宙においては左右とか前後とか上下とかでなしに‘内と外’の概念が重要になると指摘した。地球重力圏の内と外。宇宙船の内と外。

 定常開放系という考え方ががある。生物体は環境とたえず物質交換をする中で構造と定常性を維持し、成長させていくシステムであると考える。そこでは皮膚は内と外との境界線が明確な袋のイメージでであるよりも多孔体とか網様体といった網のようなイメージになる。

 一方、情報系における内と外の関係はどうなるだろう。環境から情報をとりこんで生体の内部である処理を行い表現としての言語行為なり身体動作を行う。といった物質代謝系と似たような袋の図式が考えられる。それが一般的なイメージだろう、しかしむしろ仏教思想でいう唯識論(総ての物事はそれ自体が存在するのではなく、それを認識する人の心の働きによるものだとする考え方)が人間の情報構造について考察するにはふさわしい。そこには内と外は存在しない。三界は唯心であり、存在はすべて心の中にある。養老孟司は“唯脳論”のなかでヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。」と定義している。しかし唯識の立場はもっと徹底している。総ては脳内の出来事であり、現象総体は心の中にのみある。実体と認識される物理的な存在はすべて虚妄にすぎない。唯識の僧侶と禅僧との対話にこのようなものがある。

「ところであそこに見える庭石はあなたの中にありますか?」と禅僧が尋ねる。

「当然、私の心の中にあります。」と唯識の僧。

「さぞかし重いことで!」と禅僧が揶揄する。このように唯識の考えでは庭石ばかりでない、宇宙全体を背負っているのである。内と外の境界がないところは定常開放系に近い、むしろ情報と身体との関係における定常開放系的思考は唯識論的思考によって正しく認識できるといえる。人間が情報を記憶し保持することは、トポロジーでいえばメビウスの環の四次元への拡張であるクラインの壺の内部に水が溜まる様なものである。するとメビウスの環に裏と表がないように内と外の境界もなくなる。情報の保持機構としての神経細胞のネットワークが網構造として浮かび上がる。

 皮膚の持つ触覚感覚は視聴覚などの他の諸感覚器官の原型をなす。その意味で人間の受容する総ての情報に皮膚はかかわる。

個別の人間の皮膚という形態論からでなしに、集団としての人間について考えて見よう。『家族』はほとんど無意識に語られる人間の身体そのものである。家族を考えるとき個人はその自我意識ほど自立した身体感覚をもっていない。家族の身体は『家庭』として意識され『家』として存続される。核家族化によって家意識は希薄化したように見えるがむしろ、「内と外」意識は非常に強い。『家』に象徴される大家族制には曖昧な周辺があり、境界はぼける。

その次の群れの単位である村落共同体については、たとえば『祭』は地域共同体の一時的な身体形態の表現といえる。それが意識され可視化される瞬間である。無論村落は明確な境界をもつがメンバーのコミニティー意識はまちまちである。

会社や大学などの『法人』が一つの形態をもつ。CI(コーポレイテッド・アイデンティテー)などで努力をしているがその身体表現は多くの困難がともなう。コンピュータネットワークの生成はこの組織が母体になっている事は事実であるし、興味深い。日本の会社社会ではそれへの忠誠心は高く身体意識はかなり高い。『法人』そのものは法律的な擬制であるといえる。

都市が一つの共同体の形態あらわすならばその都市の発展と衰退のあり様を可視化することはできる。数百年~数千年単位の時間の中で。このように群れの身体を可視化しようとすればながい時間を縮小し大きな空間を一望するエキスパンデッド・アイをもつことが要請される。

 国家有機体説がある。この考えはナチズムとして第二次世界大戦後は否定されてきたが、国家はまだ強固な人間の思考を決定づける大きな要素である。そして国家の境界は明確である。集団としての人間を考えるとき現在一番支配的な単位が国家であるといえる。人類有機体説という考え方がある。しかし類的な存在として人間をとらえるとそのときの物質的な内と外との境界はどのようになるだろうか。その形態を明確に認識するのは難しい。人類という種だけで閉じてはだめだ。

むしろジェームズ・ラブロックらの提唱する地球全体を一つの生命体として捉えるGAIA仮説が新しい意味をもってくる。地球のとそれを取り巻く薄い球体の気圏と水圏が生命のフィールドであるし『ガイア』の全形態であるとも身体であるともいえる.


第二の皮膚 衣服の発生

  人類の発達史における衣服の起源を位置づけると次のようになるだろうか。
      言語の獲得
       ▼
      直立歩行(森林からサバンナへ)
       ▼
      道具の制作(石器の使用)
      火の獲得
       ▼
            農耕の発明
      土器の制作
      衣服の着用
       ▼
      文字の使用
 建築する動物は人間だけではない。巣(家)を造る動物はたくさんいる。蟻や蜂の昆虫から様々な巣を作る鳥類などだが、服をまとう動物は人間以外にいない。
 いわゆる裸族と呼ばれているイリアンジャヤ(ニューギニア島)のダニ族でもキオというペニスケースをつけ、腰には紐をまきつけ、幅広ネクタイのような子安貝のワリモケンをつけている。

 リーフェンシュタールがアフリカのスーダンで取材した写真集‘ヌバ’やヴェラ・レーンドルフの‘ヴェルーシェカ(変容)’に見るように身体変形と身体装飾、化粧と着衣行為との間には非常に強い相互補間関係がある。

 衣服の発達は基本的には“裸か着衣か”の対立を軸としてきた。どこを被いどこを見せるか。恥ずかしいから着るのではなしに着るから恥ずかしい。羞恥心は被い隠すことによって初めて発生する。防寒や怪我にたいする防御といった機能面へよりも,衣服の発生に関する一つの重要な指摘はその象徴機能に注目する。衣服を着る理由はなかなかはっきりしない。たとえば栗本慎一郎の”パンツをはいた猿”には人間がパンツを脱がない理由について流流述べられていてもパンツをはいた原因と理由については一切述べられてない。

 衣服はシンボルである。異性に強く呼びかけ,異性の気を引きつけ、同性に対しては地位や富をアッーピルする。また着る人の思想や内面感情を無言のうちに的確に表現する。衣服は言語である。衣服は共同体への帰属の表明である.また仲間への連帯のアッピールである.

 ナイロンやポリエステル等の合成繊維の発達によってパンスト、ボディースーツ、レオタード、スパッツなど身体に密着する衣服がファッションの状況を変えている。第二の皮膚の完成といえる。その皮膚をまとうことによってスカートや下着などの他の衣服のアイテムはラフになり自由になる。

  衣服と移動体(ヴィグル)と建築の間には様々な関係がありその中間種が存在する。フトン、コタツ、カヤ、テント、パオ、モービルハウス・・移動体(ヴィグル)とそのなかにいるヒトはホモ・サピエンスから新しい種(ホモ・モビタス)の誕生と位置づける考え方もある。それに従えばネットワークのなかのホモ・サピエンスをホモ・ネットスとでも名づけようか。

人間と自然環境の間には衣服と同様に様々なメディアを介在させる。また介在させないと気がすまない。人間はそういう動物らしい。裸そのままでで自然と対置できない。人は第二の皮膚である衣服をまといとりあえず安心する。それは人間が社会的動物であるからだ。


第三の皮膚   電子化された皮膚

  アメリカのポップアートの作家である、オルデンバーグは60年代に「ソフトタイプライター」「ソフトトイレット」などの作品を発表した。それは近未来における機械システムと人間との関係を先取りする芸術家の予感だろうか。
メディアスーツと仮想現実の関係について考えて見よう。

  90年代電子機器は物理的にソフト化しますます環境化してきている。また潜在化して表面に出てこなくなってきている。強誘電性液晶の技術は人工環境全体を表示系に変える起爆力をもっている。人々は反応し変化する環境のなかに身を置きたがっている。絶えず変化する電子壁紙や電子ガラスが日常生活空間の中に取り入れられる日は近い。ビルや建物の外壁が表示系として利用されることも大いに考えられる。

  ジェット機のヘッドアップディスプレイの技術は自動車のリアウィンドウに応用されナビゲイションシステムの表示系や計器類の表示系として大きく変ろうとしている。近づいてくるバニシングポイントや現実風景にたいして山の名前や標高が表示され、通過する集落や町の名前、人口数や概要が解説される。ビルの名前や交差する道路名、行き先が表示される。重要なことは現実の風景にオーバーラップしてリファレンス情報が表示され提示されることである。シースルータイプの表示装置の必要性がそこにある。とかくヴァーチャルリアリテーというと閉じたHMDだけの世界を思いがちなのだが。

それと同じ事が人間のヘッドマウンテッドディスプレイ(HMD)にも起ころうとしている。液晶技術の発展によって、ヴィジアルウオークマンともいうべきゴーグルが造られ現実の風景とコンピュータやネットワークから情報が同時に見れるようになるシースルータイプのHMD。さまざまなセンサーを装着して外界をヘッドマウンテッドディスプレイを通じて可視化させる。たとえば頭部に赤外線センサーを装着して外界表面の温度状況が絶えずわかるようにする。眼球運動センサーによって注視点入力がマウスのかわりになる。

このゴーグルは電話やコンコンピュータ・ネットワークと接続されることにより、また電子回路の小型化とソフト化によってメディアスーツとなる。服のように肉体に纏わりつき,時計のように持たないとどこか落ち着かない心理作用を持つようになる。社会的環境の中でヒトが裸のままに対置できないようにメディアスーツを着用しないといられなくなる。携帯電話やシステム手帳が一度使いだしたらもう手離すことことができなくなるのと同じようにように。そのようにして第三の皮膚は人間の社会生活に密着する。そして仮想現実は仮想ではなくなり単なる現実になる。今の我々が感覚諸器官をとうして得る世界を現実として何も疑わないように。

 マックルハーンが『メディア論』のなかで強調したのは人間の諸器官の拡張原理としての諸メディアの発展の方向と人間の諸感覚の変容とそれにともなう思考プロセスの変化である。《メディアはメッセージである》はそのことをさすのだ。メディアを選択したときすでにその内容(メッセージ)の90%はきまっている。パソコンネットワークやインターネットによってコンピュータが個別の存在ではなしにネットワーク化して存在するときコンピュータメディアは人間拡張のツールであるよりもむしろ人間結合の原理としてマックルハーンの提唱するグローバルヴィレッジが現実のものとなる。さらに地球全体が一つの生命有機体とするガイア仮説と結び付けてピター・ラッセルの提唱するグローバルブーレンのハードウエアの誕生と捉えるべきである。環境全体が表示空間になることと同時にその表示装置に各自のコンピュータのウインドウをひらいたり、アクセスできるようになる。ガイアの神経系と大脳空間が物理的実体として形成されることになる。

類的な存在としての人間の思考の大部分が集合的無意識と呼ばれる領域であるように、西欧近代のデカルト的自我意識が幻想であることに気づくだろう。そもそも言語も知識も、思考も個人のものではなしに集団的なものだ。それは当然、身体的な存在そのものについても言える。

『孔子暗黒伝』が代表作の漫画家、諸星大三郎の描く『イオの世界』は機械と人間の融合し、一体化した世界をしめしているが1960年代に生活装置グループ《イオ》のしめしたものは共同思考装置であり共同思考法人である。

『われわれは情報や社会的ー情動的なコミュニケーションを、仲間や友人や同じ関心を持った「見知らぬ人」と大量に交換する「ネットワーク国家」となるだう。・・・われわれは「地球村」になるのだ。・・・一人の個人が文字どおり国のどこでも、あるいは世界のどこでも働き、買物をし、教育を受けたり、いっしょに勉強したりすることができるようになるのだ。』 

そのような共同体を実現し得る、様々なメディアが作られ用意されつつある。無論国家の壁は高くて強固である。言語の障壁も非常におおきい。しかし意外ともろくベルリンの壁が壊され、ソビエト連邦が崩壊したように、そして今多くの国家が乱造されているようにコンピュータネットワークが人間同士の諸関係を大きく変革する原動力になり、国家権力の壁を突き崩しうるかもしれない。それは余にも楽観主義的ではあるが、敢えてその行き着く先をいえば惑星ソラリスで展開する次のような光景だろうか。

『擬態活動を眺めていると、忘れ得ない印象が次から次へと湧いてくる。超自然で異様なものが作られはじめるときには、海は<創造意欲の高揚>を味わっているように見える。そのような時には、海は周囲のさまざまなヴァリエーションを創り出したり、それらを組み合わせて複雑な形を創り出したり、あるいは<形式の抽象>をやったりして、何時間でもぶっつづけにその仕事を楽しんでいる。「ソラリスの海は生きていて、しかも理性的な存在である」』……“ソラリスの陽のもとに”スタニスワフ・レム/飯田規和訳

個人も人類も、さまざまなべつの生命個体も全部溶解して海のようになった知性体の姿がある。太陽系第三惑星テラをつつむスープ状の知性生命体『ガイア』。

それはある意味では、唯識論の全面的な復権だろうか、それともイディアの形而上学の復活であろうか。

形而上なるものこれを道といい、形而下なるものこれを器という。[易経、繋辞上伝]